【帰ってきた】ガチ議論
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トピックス

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iPS細胞の研究に関する大誤報を目の当たりにして感じたこと

20130329d

山中伸弥博士がiPS細胞の研究でノーベル賞を受賞して日本中が興奮したのも束の間、ハーバード大学の日本人研究者を騙る人間がiPS細胞に関する研究で大きな問題を起こしてしまいました。まずは簡単に経緯を紹介します。 今月11日のY新聞の朝刊一面で、ハーバード大学の客員講師を名乗る日本人研究者(日本人医師)が米国マサチューセッツ総合病院において iPS細胞を使った臨床応用に初めて成功した、と大々的に報じられます。その後、Y新聞のネット版でも続報が出され、写真付きのインタビュー記事がネットで出始めます。S新聞など一部の新聞社も、このY新聞のスクープ記事に続いて、iPS細胞を使った初の臨床試験(患者の経過も順調とされた)が日本人によって行われたと好意的な表現で報じられました。 そして、それらニュース記事をもとに、テレビでも件の人物のインタビュー映像などが放映され始めます。情報番組などでは、日本のお役所的な対応のせいで日本のiPS研究は米国より遅れているのだと、日本の行政を批判する風潮が見受けられました。その際、米国ではメリットがリスクを上回ればゴーサインが出る、などとして説明され、今回の臨床試験は「暫定承認」といった特別な措置のもとで行われたと米国側の対応の柔軟な姿勢を支持する報道が行 われました。 しかし同日、一部新聞が今回の臨床試験の科学的問題点に触れ始めるようになり、その後にハーバード大学とマサチューセッツ総合病院が異例 とも言える公式声明を出し、件の自称ハーバード大学の客員講師なる人物は自分たちとは全く関係がなく、iPS細胞を使ったとされる臨床試験の承認を全面否定しました(10年ほど前に1ヶ月ほど在籍していたことは認める)。それと前後して、ロックフェラー大学での学会で発表することになっていたポスターが学会側の判断(内容に疑義がある)で撤去されたという報道が出ました。 このような事実が発覚した結果、マスコミの報道姿勢が一気に「快挙」から「疑義」へと移り変わり、はじめにスクープしたY新聞も遂に誤報である可能性を認めることになりました。また、誤報であるということが確定しつつある中、東京大がこっそりと彼が在籍していたとされるWebサイト上の記録を消去したり、現在在籍しているとされる東京医科歯科大学が謝罪会見を開くなど、この人物を巡る影響が色々な方向へと広がっていきました。 しかし本人は、こういった状況下でもテレビ等のインタビューに応じており、はじめはハーバード大学側に間違いがある等の強気な姿勢を見せていました。しかし、徐々にトーンが下がり、今では「自分のやってきたことが思い違いだったかもしれない」などと語るようになりました。さらには、この人物が、医師としての資格を持っていなかった等の驚くべき事実も明らかとなり、そもそも全てが本人の妄想であったという可能性も囁かれるようになりました。 この問題の最悪なケースとして想定されるのは、医師でもない人間が許可なく患者にiPS細胞を投与したことが事実であったと確認できてしま うことです。その場合、「日本人」が米国でも有数の病院であるマサチューセッツ総合病院および世界的にも有名なハーバード大学の権威を失墜させます。この 業界において、医師でもない人間が何の承認もなく安全性が確保されていない治療行為を行うのは大問題です。この場合、仮に関与を否定したとしても、マサチューセッツ総合病院ならびにハーバード大学にも責任は大いにあります。また、ノーベル賞を受賞したことで臨床応用に一気に進むことが期待されたiPS細胞に対しても、周囲の見る目が厳しくなり、今後の臨床試験へのハードル今以上に高くなるはずです。そして、その結果として臨床応用への道が遠ざかる可能性が出てきます。 ただし、これまでの経緯を見る限りでは、今回使われたとされるiPS細胞は山中博士とは違う方法で作製したとのことなので、実際にこの細胞 が多様性を持っていたかどうかも怪しいと思われます。しかも、臨床試験そのものが行われていない可能性もかなり高く、全てが「でっち上げ」であるのではないかと自分と私の周りの研究者仲間は考えています。 今回、たったの二日足らずで世紀の大スクープが大誤報であると判明したのですが、調査不足でスクープ記事を打ったY新聞の責任は重大です。 Y新聞はこの人物の研究成果(おそらくそちらも科学的には証明されていない)を数年前から何度か報じていることが確認されています。しかし、研究者でなくとも、この人物の発言等の矛盾点は少し調べればわかることです。その基本的な裏付けすらせずに大スクープとしてニュース記事にした結果、iPS細胞の研究 の将来性を損ねるだけでなく、医学業界での日本人の評判を落とす事になりかねなかったのです(既に影響が出ている恐れは充分にあります)。 Y新聞が少しでも科学的に物事を判断することが出来てさえいれば、今回のは単なる自称「ハーバード大学のお医者さん」の妄想で終わっただけだったのだと思うと、今回の大誤報はiPS細胞の研究に関わる身としては本当に残念に思います。 執筆者:iPS細胞の未来を信じる者 BioMedサーカス.com・オピニオンより執筆者の許可を得て転載させていただきました。 予告:近日中に、捏造関連企画、行います。

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ある学生の疑問~学術雑誌のシステムについて~

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博士課程の学生です。私みたいな未熟な研究者(の卵?)が、このような場所に寄稿しても良いのか悩んだのですが、これから研究者を目指す自分にとって、この業界について非常に疑問に思っている点があったので文章にまとめてみました。 いつもは自分が読む側であったウェブサイトに自分が書いた文章が掲載されるので、少し緊張しながらこの文章を書いています。このオピニオンのコーナーは、掲載された記事だけでなくTwitter上で様々な人の意見を見られるのがとても楽しいので、批判コメントも含めて私の疑問に色々な人に答えてもらえればいいなと思っています。 私は本名でTwitterをやっていますが、自分のTwitterアカウントで今回の疑問を出して見ず知らずの人に叩かれたりすると凹んでしまうので、今回はペンネームを使わせてもらっています。ネット上で匿名での活動は好ましくないと思う人がいるのは重々承知しておりますが、どうぞご容赦ください。 さて、私の疑問ですが、それはズバリ論文の投稿料・掲載料に関してです。 私が学部4回生で研究室に配属になったばかりの頃、先生や先輩たちが研究論文を雑誌に掲載させているのを見て、研究者として尊敬+憧れの感情を持つとともに、印税(もしくはそのようなもの)をもらってるんだろうなぁと思って自分も頑張ろうと思っていました。でも、お金のことを聞くのはその頃の自分にとっては難しかったので、具体的にいくらもらえるのかとかは聞きませんでした。でも、飲み会のときとかに、先生におごってもらったり先輩が少し多めに出すのを見て、たくさん論文を出してるからたくさんお金をもらってるんだろうなぁと少し羨ましく思った記憶があります。 その後、博士課程に進む決意をして博士課程への進学が確定したときに、いつも面倒を見てくれていた准教授の先生に思い切って質問をしてみました。そのときにどんな言葉で質問したかは覚えていませんが、「論文を出すといくらくらいもらえるんですか」とか「やっぱり良い雑誌の方が原稿料も良いんですか?」とかと聞いたと思います。自分の質問の言葉はあまり覚えていませんが、その答えは今もはっきりと一言一句覚えています。先生は「逆逆。こっちが払うんだよ。論文を出せば出すだけ貧乏になるんだよ。面白い世界だろ。」とやや自嘲気味に笑って答えてくれました。 私はその答えを聞いて頭が完全に混乱しました。その後にネットや書籍などで色々と調べて、学術論文に印税のようなものはないこと(依頼された総説論文には稀に謝礼が支払われることがある)、ランクの高い雑誌やオンライン雑誌には掲載料(20万円以上も珍しくない)がかかること、更に一部の雑誌には掲載料だけでなく投稿するためにお金がかかること(論文がリジェクトされても投稿料は戻ってこない)、などがわかりました。 でも、これっておかしくないですか?私たちの論文を掲載している雑誌は、その雑誌を購読してもらうことで収益を得ているわけですよね。言ってみれば、雑誌の中身(コンテンツ)は商品なわけです。それなのに、商品を仕入れるのに、お金を払わずに逆にお金をもらっているということになるんです。別の言い方をすれば、そういった雑誌社は、お金をもらって仕入れた商品を売っているわけです。 私はまだ学生なので世の中のことがあんまりわかっていないのかもしれませんが、自分の常識としては、このシステムは非常に不自然に思います(逆に言えば、このシステムを考えだした人はすごいと思います)。そのため、このようなシステムは他の分野でも珍しくないのか疑問に思いましたので、文章にまとめてみました。 さて、以下は上記のような疑問を文章にしていて思ったことです。蛇足になってしまいますが、せっかくの機会なので付け加えさせていただきます。 今回の雑誌システムの矛盾点(?)にも関係するのですが、今の世の中は研究者にお金が入ってこないような流れにあるような気がしています。もちろん、研究者はお金儲けなどにとらわれてはいけないという風潮があることは理解しているつもりです。ですが、研究者がその働きに応じた収入を得るのは当然で、それが成り立たないと次の世代(特に優秀な層)がこの世界に入ってこなくなるのではないかなと心配に思う気持ちがあります。 実際に、学部生の頃に優秀だなと思っていた私の周りの人は、ほとんど博士課程には進まないようです。それどころか、生物学の分野に進むことすら避けているような印象があります。もちろん私は優秀な人ではないということは自覚しているのですが、自分は小さい頃からこの世界に憧れていたので、生物学の博士課程に進んだことを情報弱者だとかと嘲笑する風潮には抵抗を覚えます。 ですが、世の中はお金を中心に回っているということに少しずつ気づいてきたので(気づくのが遅かったかもしれませんが)、現在の状況では確かに生物学の博士課程に進むのは「得か損」かという観点では「損」になる(=つまりは博士課程進学者は情報弱者)ということも理解できます。でも何となく腑に落ちません。 何だかまとまりのない文章ですみません。「お前は金持ちになりたいのか?それとも研究者になりたいのか?」と言う叱責の声が出るのは承知しています。ですが、私は生物学が好きですし、この分野は大事だと思っています。そして、その研究を続けていたいとも思います。一方で、きちんとした報酬も欲しいとも思っています。 でも、まずはきちんとした業績を出すのが大事ですよね。その上で報酬を要求すればいいのですね。長文かつ駄文失礼いたしました。 執筆者:研究者の卵(有精卵であることを望む) BioMedサーカス.com・オピニオンより執筆者の許可を得て転載させていただきました。

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安定した基盤的研究費の導入を!

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国の研究予算が増加しているのにもかかわらず、一般研究者にはそのメリットを受けている実感はほとんどありません。むしろ、日本の研究者をとりまく環境は、キャリアパス問題や 論文の国際シェアの低下 など、マイナスの方向に向かっていることを示唆する情報に満ちているように思われます。 これには、様々な原因があると考えられます。ムダな事務作業、機関内外の教育・研究以外の雑用(各種委員会など)、多すぎる学会・研究会・シンポジウム、不安定なポジションのため研究に集中しにくい、などなど。これらの原因の中で最も大きな要因のうちの一つが、研究に先立つもの –研究費- の不安定さ、ではないでしょうか。 現在の科研費を始めとする研究費のシステムでは、期間が3〜5年(1〜2年のものも多いです)と短いものがほとんどです。採択か不採択かがall or noneで決まるのでこの期間の最終年度が近づくと気が気でありません。 また、 「若手B(基盤C)にはほぼ確実に採択される実力があるのだけれども、若手A(基盤B)だと確率はかなり低くなる。どちらに申請するべきか?」 というような選択も迫られ、ギャンブル的な要素もあります。 さらに、額はそれぞれ少額で、採択率は10〜20%と低いものが多いので、たくさんの種目に申請する必要があります。また、科研費の場合、各領域の申請数から採択数が決定されるので、領域内でたくさん申請することを奨励されることもあり、なおさらです。 結果として、ある程度の額をどうしても確保する必要のある分野の研究者は、常に研究費の申請をし続けなければならず、ある時は研究の継続性が途切れてしまうほど困窮し、ある時は(例えばネイチャーに論文が掲載されたりすると)必要以上に裕福になったりします。研究者の多くはただでさえ少ない貴重な時間を申請のために割かなければならず、目的の異なる細切れの研究費の寄せ集めのため一つの大きなテーマにじっくりと集中しにくいような環境にあります。採択率が10〜20%というのは逆に言えば、80〜90%の申請の労力は水の泡に帰する、ということを意味しています。この労力には、研究者の人件費(ほとんどの場合、国民からの貴重な税金)というコストがかかっています。正味、いくらの税金がここに使われているのでしょうか?怖くて計算する気がおきません。さらに、我が国の貴重な知的資産であるトップレベルの頭脳が、このような作業に浪費されてしまうわけですが、これの損失はまさにプライスレスと言えるでしょう。 科学技術の研究では、(分野にもよるとは思いますが)大きな難問にじっくりと長い時間をかけ集中して取り組むことが重要ではないでしょうか。世界にさきがけて独自の大きな価値を持つものを発見したり開発したりするためには、そういうことをサポートする仕組みが必要でしょう。つまり、期間が短く少額のギャンブル的研究費が多種乱立している状態ではなく、期間は長く比較的額の多い安定した基盤的研究費がどっしりとあるというのが望ましいのではないでしょうか。 ということで、過去の実績に基づき、評価によってゆるやかに額が変動する安定した基盤的研究費の導入を提案します。 この制度では、研究者の過去の実績の評価に基づいて額がゆるやかに変動しますが、突然ゼロになったり、突然極端に増えたりはしません。 突然ゼロにはなりませんが、長期的に本当に何も成果が出ていなければ、少しずつ減っていきゼロになることもあります。また、突然極端に増えはしませんが、明らかに伸びそうな有望な芽があれば、他の種の研究費(現在の「さきがけ」のようなもの)が措置されるようなことを想定しています。 この提案は日本の研究費の総額の多寡ということとは全く別の話であり、同じ総額であることを前提に、どちらが効率的に成果を生み出せるか、ということについての議論です。自分としては、同じ総額であれば、間違いなくこのような制度のほうが効率的に成果を生み出せるように思います。 この案については、以前、当時の鈴木寛文部科学副大臣のもとで行われた「若手研究者意見交換会」というので提案させていただき、文部科学省にて検討していただいたことがあります。文部科学省からのコメントは、「そのような仕組みは、競争的資金とは言えないので…。」とのことでした。評価によって額が変動しますので競争的資金と呼ぶことができるはずですが、この案はそこで止まってしまったという状況です。 しかし、2010年に行われた研究者に対するネット上でのアンケートでは、(適切な評価方法があれば、という前提で)そのような安定的研究費があったほうが良い、という意見が90%をこえました。 また、新学術領域「包括脳ネットワーク」のアンケートでも、競争的研究費についての「制度に対する要望」での10個の選択肢のうち、No.1の得票数を得たものは「安定した長期的・基盤的研究費を増やして欲しい」というものでした。 研究者からのニーズは強く、こういった類の研究費を導入していただくことには大きな意義があると考えられます。 かなり具体的な案をダウンロードできるようにしておきました(パワーポイントのファイル)。これはあくまでもラフなたたき台であって、細かい方法がこのファイル中にあるようなものである必要は全くありません。また、評価の方法については、透明性・公平性が保たれ、研究成果のアウトプット(応用的なものだけでなく基礎的成果のアウトプットも含む)が全体で長期的にみたときに最大化されるような方法が、じっくりと検討される必要がもちろんあります。ここで主張したいことは、細かい方式はともかく、all or noneでギャンブル的に「当たり、ハズレ」があるような現状の研究費にかえて、長期的に安定した基盤的研究費を導入していただきたい、ということです。 いかがでしょうか。皆さまのご意見、よろしくお願いいたします。 藤田保健衛生大学・教授・ 宮川剛 (この意見は筆者が所属する組織の意見を反映しているものではありません) … アンケート 現在の採択・不採択が全か無かで決まるような科研費の制度に代えて、安定的に配分されるような基盤的研究費を導入するべき、という意見があります。この制度では、研究者の過去の実績の評価に基づいて額がゆるやかに変動しますが、突然、ゼロになったり、極端に増えたりはしません。実績評価の方法については別途検討することとし、選択肢を選ぶ上で考慮に入れないでください。 .

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ホンネとタテマエ

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本音と建前というのは新聞の家庭欄の親戚付き合いネタあたりで良く出てくるキーワードですが、まさかそのようなものはあるまいと思われるサイエンスの社会でも、しばしば出てくる言葉のような気がします。10年度にはガンの有効な治療が見つかる。10年後には花粉症は治り、アトピーにも有効な治療法が見つかる。10年後に画期的なグリーンエネルギーが実用化に乗る。そんな事そう簡単にできる分けないでしょうというのがホンネ。でもそういわないと研究費が取れないでしょう、文科省がお金を出してくれないでしょう、財務省がウンとは言わないでしょう、というのがタテマエ、という具合です。 ケネディ大統領が「1960年代中に月への有人飛行を実現する」と冷戦宇宙開発競争まっただ中の1961年に言った発言は、ホンネだったのでしょうか。タテマエだったのでしょうか。時代も少しずれているため状況を知る由もないのですが、結果としては、その発言は実現し、技術的な波及効果もおそらく大きく、なによりも、ああ、やはり科学というのはすごいな、という感動を多くの人に、特に若い世代や子供達に植え付けたのは間違いないところでしょう。岡本太郎と月の石。ホンネだろうがタテマエだろうが、そういう話を全てを吹き飛ばしてしまう夢いっぱいの「痛快」な出来事。今で言うなら山中効果でしょうか。 全てのプロジェクトがアポロ計画のように、iPSの様にいけばよいのですが、そうなる訳はないというのは、なんとなく研究の現場にいる皆が思っている事だと思います。研究など、そもそも何処に向かっているのか分からない。人知の範疇を越えた偶然の発見こそが知の壁を打ち破る原動力なのだと。しかしながら、税金で研究している以上、説明責任があります。というわけで、そんな事は出来ると思っていないのに、研究費の申請書には「XXXXという成果が見込まれる」という一文を最後に書いてしまう。というかそういう書式になっているじゃないですか、と言い訳しながら、ホンネを隠し、タテマエを出してしまう。というのが実情だったりするのではないでしょうか。 一方で、本音と建前などなしに研究している方もおられると思います。特に患者さんを目の前にしたお医者さんの研究者にはそういう方が多いのではないかと思います。ホンネとタテマエを使い分けるのはどちらかというと基礎研究者でしょうか。そういう態度は真剣に患者さんと対峙している医療研究者の方々に対して、失礼な、なんかズルいような気がします。その一方で、基礎研究者は、一人の患者も救ってはいないけれども、サイエンスの土台を作り育ててきたという側面もあると思います。研究者がいわゆる「自由な発想」(個人的には「苦悩の発想」だとおもいますが)を積み重ねてきた結果、現在の生命科学の繁栄があるのだと。 いずれにせよ、「ホンネ」と「タテマエ」は、乖離すればするほど、実践的には非効率になるのではないかと、そう思うのです。「XXXを目指す」と言うのであれば、やっぱりそれをやらないとおかしいと思います。その一方で、何かを目指しているわけではない研究こそがサイエンスを発展させてきたといっても過言ではないと思いますから、そのような研究も、同様にサポートされるべきだと思います。国民に対して説明をしなければならない。その「国民」って誰?向こう三軒両隣のおばちゃんが「国民」なら、むしろ後者の方を応援してくれていたりして。 長くなってしまいましたが、ここからが論点です。ともすると、基礎的な研究よりも、実用的な目標を前面に出したプロジェクトの方に、昨今では研究費が多く投入される傾向にはないでしょうか。たしかに、実用的な目的がはっきりしていないものよりもはっきりしているものに研究費を集中させたほうが、社会への還元という観点からすれば効率的であるようにも思われます。文科省への、財務省への説明もつきやすいのかもしれません。しかしながら、現場レベルで見ていると、そんなにうまくいくものではない、どうしても建前と本音がどんどん分かれていってしまっている感覚があります。実用的な目標を定めた研究への研究費をもう少し減らして、基礎的な研究費(科研費とか)を拡充させた方が、学問としては活性化し、そのほうが結果として社会への還元力も多くなるのではないでしょうか。この組織のミッションはこれこれ、この組織のミッションはこれこれ、といって、大学と研究所の役割を分けてしまうのも疑問が残ります。大学でも、理研でも、産総研でも、付属研究所でも、それぞれの場所で、基礎研究でも、応用研究でも、やれば良いと思います。そのかわり、個人レベルでは本音と建前が乖離するような事はやらない。本音と建前をなるべく近づけたい。そのためにもプロジェクト型研究よりも科研費の拡充を、というのが願いです。 理化学研究所 中川真一 (この意見は筆者が所属する組織の意見を反映しているものではありません)

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学会なんかいらない(2)

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「学会なんかいらない!」にコメントを投稿していただいた方、有難うございました。 学会、集会が多すぎると言うのは、誰もが感じていることのようで、戴いた全てのコメントはその点に関しては一致していました。 「インターネットが発達した現在、これからの学会は、face to faceで話し合う場としての価値を高める事が重要」(sawaさん、nakajimaさん)のは確かでしょう。それには、学会の仕組みをうまく変えて行く必要があります。IT化でそれができるのかどうか。今年の分生でも、IT化をさらに進めますが、それで済むのかどうかはちょっと解りません。でも、できるだけやってみます。 学会が増えてしまう要因としては、 「科学予算の評価基準の一つに、国際会議や**シンポジウム開催を年に1回以上開く等が大きなウェートを占めている以上、大先生方は新しい会議をつぎつぎに開催せざるをえず」(kawashimaさん) と言うのが、多くの人が思っていることだと思います。 しかし、文科省の斎藤さんから、 「科学的成果を度外視して、シンポジウム、国際会議の回数を評価基準にするような考えは役所にも無いと思います。そもそも国のプロジェクトでも選考委員は研究者ですし、研究者側でしっかりした評価基準とそれに基づく説明が出来れば、研究にプラスにならない会議で評価され、予算が決まることは無いはず。選考にあたる科学者自身によって改善可能だと思います。 一方、社会への発信が足りないとはよく批判されることですので、一般向けの公開講座やwebでの情報提供は必要だと思います。ただこちらも常に研究者自身がやらないといけないとは思いません。」 という明確な回答をいただきました。 みなさん、よく覚えておいてください。無理に国際学会を開いたりしても、意味の無いニュースレターを発行しても、そんなことは役所側は評価する考えは無い、のです。科学者が、自分自身の手で自分の首を締めないようにしたいです。 また、「学会が権威の醸成に使われている」(MYAMAGATAさん)「上の方で話し合って合併してほしい」(masuiさん)という意見もありました。確かにその通りで、しかもそれは本来、科学者の心がけ、行動次第でなんとかなるはずの事です。ただ、それをリーダーシップをとってやる人がいません。というか、科学者は良くも悪くも個人商店として活動しているので、そういう立場の人がいませんね。このあたりが、一番問題なのかもしれません。 2013年 分子生物学会年会長 近藤滋 (この意見は筆者が所属する組織の意見を反映しているものではありません)

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すべての公的研究費の複数年度予算化を

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科学研究費補助金に基金化による複数年度予算制度が導入されつつあります。しかし、実はこの基金化が危機にさらされている、という話を聞いています。これは、たいへんだ!ということでこの意見を書いています。 単年度予算制度がいかにムダを生んでいるかについて、3年ほど前に私も関わりました「神経科学者SNSの提言」が問題提起を行いました。この提言は総合科学技術会議の「科学・技術ミーティング in 大阪」にてとりあげていただきました。科研費の基金化は、これを一つのきっかけとして文部科学省の「予算監視・効率化チーム」を中心に検討をしていただき、関係者のご尽力により実現に至ったものと理解しています。この基金化は単年度予算制度のさまざまな問題を解消することができるものとして研究者コミュニティでは好ましく受け取られているのではないでしょうか。 しかしながら、私がある筋からお聞きしたことによると、科研費の基金化は「財政規律に照らして望ましくないもの」として財務省からは認識されており、公的研究費すべてが基金化されるまでの道は容易ではないようなのです。このままでは、公的研究費すべてが基金化されるどころか、基金化された科研費ももとに戻ってしまうことすらもありうるのではないか、と危惧しています。つまり基金化が危機にさらされている状況といえるでしょう。研究者コミュニティが協力して、複数年度予算制度がなぜ必要なのか、それを導入することによってどんないいことがあるのか、について、現場からの声をしっかり国に伝えることが大事なのではないでしょうか。 以下に、これについて、私なりの意見を述べてみます。 研究の結果は予想できない 科学技術研究のほとんどについては、得られる研究結果によって研究計画が大きく左右されます。 そもそも計画した研究で予想した結果が得られるかどうかについては、実験・調査などをやってみなければわかりません。ある程度、どのようなるか複数の可能性が予測できる場合もありますが、そのようなものでも実際にその中のどれが正解であったかによって、計画が大きく変わってしまうことが多いです。例えば、ある疾患の非常に良いモデルマウスを確立することに成功したとしましょう。次に行うべきこととして、いくつかの薬物や物質を投与してその症状を回復させることを目標に、物質A、物質B、物質Cを試みる計画を立てたとします。この計画を遂行した結果、この中の物質Bが見事に症状の回復に成功した場合と、A, B, Cとも外してしまった場合では、その後の研究計画は大きく変わってきてしまいます。前者であれば、物質Bの症状回復の分子・細胞メカニズムを調べることや、他に副作用的なものがないかどうか、チェックするという研究に駒を進めることができますが、後者であればD, E, Fなど他の物質の効果の検証などを継続することになります。前者と後者では行う研究の種類は全く異なりますし、かかる費用・時間なども全く変わってきてしまうわけです。iPSの樹立を試みるような研究においてであれば、iPSを誘導する遺伝子セットがわかった場合と、わからずに遺伝子セットの試行錯誤を続ける場合では、かかる費用・時間なども本質的に変わってきてしまうのです。 当然のことながら、このような研究進行の各ステップにおいて、「年度」というものがきれいに単位になっているわけではありません。研究の種類によってこの種のものの1ステップの長さは、3日であったり、3ヶ月であったり、3年であったりするわけです。最初の枝分かれの次くらいまでは予想して計画を立てることもできるかもしれませんが、このステップはその後も延々と続き枝分かれの可能性はどんどん増えていきますので、1年後や3年後に何をしているべきか、などは極めて想像が困難なのです。 さらに言えば、純粋な科学技術研究においては、当初の計画を遂行している最中に予想もしなかったような意外な発見があることがあります。そのような意外な発見にもとづいた研究のほうが、当初の研究計画よりも遥かに重要であろう、という場合もあります。むしろ、その種の意外な重要発見と、そこから脇道にそれた研究によって、科学の本質的な進歩や真のイノベーションがもたらされることが多いともいえるでしょう。当初の計画を大胆に変更し、より重要であろうトピックにフォーカスすべき、というような状況は十分にありうることであり、むしろ歓迎すべきものなのです。 つまり、科学技術研究には「予想できない計画の枝分かれ」がそもそも原理的に想定されているはずなのです。 「起こりうるべきことを予想してうまく年度毎の計画をたてることができないのはその研究者の能力不足」という批判がありうるかもしれません。道路工事やビルの建設のように工程があり、各工程にかかる費用・時間の見積もりが容易です。そういったたぐいの事業しかご存じない方々は、研究もそのようなものであると誤解されているのかもしれません。今から3年で統合失調症の分子メカニズムを解明し、次の3年で創薬、その次の2年で動物での効果の検証、最後の2年で臨床治験を行い、計10年で統合失調症克服、といった具合で。そんな具合にいくわけがないですね、普通は。確かに10万人分のゲノムのシークエンスを粛々と行う、というようなファクトリー型の研究も中にはあり、その種のものは、その種の工事のように計画を年度ごとに立てやすいということはあります。しかし、こういったものは科学技術研究の中では例外中の例外です。通常の研究では「予想できない計画の枝分かれ」が本質であり、各ステップの費用や工期の予想が容易な道路工事のようなものとは全く異なるのです。つまり、各研究者の能力の問題ではなく、研究とはそもそも原理的に長期的な計画が立てにくいものであるわけです。 単年度予算制度が生む莫大なムダ 科学技術の研究はこのような予想できない無数のステップから成り立つ活動ですので、これを単年度予算制度という枠内に押し込めようとするのはもともとムリなのです。そのムリを通している結果、莫大なムダが生まれているというのが現状かと思います。「神経科学者SNSの提言」の際に行ったアンケートでは、回答者の9割以上の方々が、単年度予算制度にムダがあると考えていました(右図;「予算の9割以上がムダになってしまう」ということではありません、念のため)。 単年度予算制度から生まれるムダと、そこから派生する各種のマイナス要因を以下にリストアップしてみました。 ・  年度末駆け込み購入によるムダな使用:通常の研究では年度末に研究費が足りなくなってしまってはアウトであるようなことが多く(動物や細胞の飼育・維持などの費用が足りなくなったら大変)、また、意外な予想しない研究の展開によって突然の出費があることもあり(というよりもむしろ予想しない展開をもともと期待している)、年度の前半では研究費をできるだけ倹約しつつ使用する傾向になるのが普通です。すると、当然のように毎年年度末には予算がそれなりに残っているという状況が出てきます。これは不必要な予算が余っているのでは決して無く、仕方なくそういう具合にしている、ということです。しかし、年度末には使いきってしまう必要があり、「駆け込み購入」で必ずしもその時に購入しなくてよいものや、むしろ後に購入したほうがよいもの(購入後に時間とともに劣化し消費期限があるようなものはたいていそういうものです)を購入することになってしまいます。本来は繰越しをして、必要なときに、本当に必要なものを購入するのがベストなのですが。つまり物品の購入活動、もっと言えば研究活動そのものが単年度予算制度によって最適化できないことになります。 ・  残金ゼロ化のムダな努力:現在の仕組みでは、年度末までに研究費をきれいに使い切る必要があります。これをどうするかで頭を悩ませ、ただでさえ足りていない研究者の貴重な時間・労力を使うことになります。繰越は一応可能なようですが、これをしようとすると、科研費の場合、「理由書」を作成して、文科省の「事前相談会」なるものにいかないといけないようです。理由がしっかりしていないと、ダメ出しもあるようです。「来年度の備えであるということが事由となると事務手続きを進めるのは極めて難しい」というご指摘を受けたこともありますが、それ以外の「適切」な理由を考える必要もあり頭を悩ませます。それほど労力がかかり、かつ没収の危険性もあることをするには勇気が必要ですので、実際には年度末使いきり、という選択をする研究者がほとんどだと思います。つまり繰越をするにせよ、しないにせよたいへんな時間と労力がかかってしまうのです。時間と労力にはすべて人件費がかかっているのですが、計算すればどの程度のコストがかかっているのでしょうか?この種のことは数値には出てきにくいですが、大きなムダとなっているのは間違いないです。 ・  年度毎の報告書・計画書:単年度予算制度があるがために、年度ごとに報告書・計画書を提出する必要があります。研究成果の報告の基本は学術論文であると思いますが、年度ごとに報告書・計画書も提出しなければいけないので二度手間になっています。細々とたくさんの小さな研究費を取得しているとこれがまたばかにならない量になります。研究者は研究そのものに集中したいわけで、これを大いに阻害しています。研究のサイクルは、論文を発表するところがちょうど良い区切りなわけです。それをもって報告書とするのが最も効率が良く、そのサイクルと無関係で区切りのわるいところで中途半端に結果を出してしまうのは競争という意味でも好ましくないでしょう。肝心のところは出さなければよい、という意見もよく聞きますが、そういうことであれば報告書の意味がないですね。また、世の中には(分子生物学会会員には少ないかもしれませんが)、論文をあまり書かず報告書・計画書のようなもので成果の報告をしている気になってしまっている研究者もいらっしゃるようです。これは全く本末転倒なことであって、そういう状況を生み出しているのも見逃せない部分です。単年度予算制度にとらわれず、論文を究極の報告書として認定する(そして何らかの事情で論文を発表できない場合にのみ現状のタイプの報告書を出す)ような仕組みの導入が欲しいところです。 ・  研究費を節約しようという動機の低下:年度末に残金ゼロ化しようという努力のために、本来、必ずしも必要でない物品を買ってしまう、という行動が普通になるわけです。随分前の話しですが、私が以前在籍していた研究所では年度末になると、ウン千万円余っているので至急使い道を考えてください、というような指示がきていました。とりあえずシークエンサーでも買っておくか、ということで買うのですが、そもそもそれほど頻繁には使わないからこれまで買っていなかったわけで、結局、ベンチの貴重なスペースに鎮座して二重のムダになってしまった、ということがありました。こういうことが常態化してしまうと正常な金銭に関する感覚がだんだんマヒしてくるもので、貴重な税金からいただいている研究費を大切に、そしてできるだけ有効に使用しようという気持ちがだんだん薄れていってしまうということがありうると思います。貴重な研究費を大切に節約しつつ使おうという動機の低下をも系統的に生んでしまう仕組みとも言えるでしょう。 ・  年度末をまたぐ際の問題:現状ですと年度末をまたいだ物品の発注・納品や、年度をまたいだ出張などが困難です。つまり、年度末にはこのために研究がストップしてしまうことがあります。年度をまたぐことができないので、2月までに使い切るように、という指示をいただいたりするわけです。そうすると年度開始までの研究に支障がでてくるのは当然です。機関や研究費の種目によっては1月あるいは年内(12月末)に使い切るように、というようなこともあるとのこと。必要が出てきたものを必要のあるときに迅速に入手したい。必要な実験を、その実験ができる共同研究先で一刻も早く行いたい。熾烈な競争をしている分野などでは、この期間の研究の停止や遅れが命とりになってほとんどの研究が無に終わってしまうようなこともないとは限りません。「一番でなくていい、二番でもいい」という考え方であれば悠長に規律に従ってさえいればよいでしょう。しかし、研究の世界では「一番になる」必要が普通はあり、一日たりともムダにしたくないのです。競争の相手がいないような研究も中にはあるかもしれません。そんな場合であってもできるだけ早く研究成果を世にだしたいことに変わりはないでしょう。研究活動を最適化しようと思えば、年度末などあたかもそんなものは存在しないかのごとく活動を続ける必要があるのです。単年度予算制度はそのような最適な研究活動を阻害し、国益、さらに言えば人類の利益を大きく損なわせている仕組みといえるでしょう。 ・  「預かり金」という種の不正:「預かり金」の不正というのがいまだに後をたちません。これだけ厳しく取り締まっているのに、なぜこのような「不正」が無くならないか、ということを考えますと、一言で答えるとすれば「単年度予算制度があるから」ということになるでしょう。預かり金という不正は、単年度予算制度の下の各種の倫理的な不正(これは法的な意味の不正とは異なる)を回避しようとして考案された法的な不正、ということも言えると思います。日本は法治国家であり法的な不正は許されてはいけないのは当然ですが、法律や憲法の中に、時代の変化などに伴い倫理的・経済的に不適切になってしまっているものがあれば、それを変える(ないしは適切になるような運用を行う)ことを検討・提案するのがあるべき姿ではないでしょうか。 ・  検収作業というムダ:単年度予算制度があるからこそ、預り金という不正が横行し、その結果、「検収」というたいへんな作業が導入されてしまったわけです。検収には人件費とそのスペースのコストがかかります。これに国全体でいくらの費用がかかっているか知りたいものです。 単年度予算制度とは このように膨大なムダを生み、モラルの低下をもたらし、そして国益と人類の利益を損なわせていると考えられる単年度予算制度はなぜ存在するのでしょうか。 それは、憲法で決められた単年度主義の原則があるからだと思われます(以下のURL参照)。 http://plus.yomiuri.co.jp/article/words/単年度主義 http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/rxr_detail/?id=20080221-90003111-r25 つまり憲法と法律に記されている単年度予算主義の原則にもとづき、予算の使途について厳重にチェックして財政規律を守るため、というのがその答えになるでしょう。 複数年度予算制度をすべての研究費に! しかし、この憲法・法律におけるルールの当初の目的あるいは本来の目的が、「毎年、国会による点検を受け、財政民主主義を図る」というところにあるのであるとすれば、今の時代、何も単年度予算制度に固執する必要はないのではないでしょうか。 一部の科研費に導入済みの基金化をすべての公的研究費に導入しつつ、何に使用したかはきちんと点検するということが一つの有効な手段でしょう。既にこの基金化という方法でそれほど大きな問題もなく運用ができているのですから、これを拡大することが大切だと思います。基金化したからといって適正に使用されているかどうかの点検ができないわけがないのです。点検には今の時代、ネットという強力な武器を使うことができます。例えば、研究費の執行を、特殊な専用のクレジットカードベースにする。何をいくらでいつ購入したか、その明細が透明になっており国が(あるいは誰でも?!)リアルタイムに閲覧できるような仕組みを構築すれば、毎年どころか、常時点検がなされることになります。検収などをせずとも、抜き打ちでその物品が納品されているかどうか随時点検をすれば十分でしょう。十分というより、そのほうがむしろ強力な点検が可能かもしれません。単年度予算制度が事実上無くなってしまえば、預かり金をするモチベーションも激減するので、検収の必要性もほとんどなくなるのではないでしょうか。直接経費で購入できない類のものを買いたい、という動機による不正は減らないかもしれませんが、それは間接経費の使用可能用途を拡大することなどによって減らすことはできるでしょう。 つまり、単年度予算主義などという古くてかつ国益を損なわせてしまうような手法を用いなくとも、今の時代では別の方法で財政規律を守ることができるはずなのです。 もう少し踏み込ませていただきますと、単年度予算主義については、憲法すらも改善していただいたほうが良いのではないでしょうか。古くて不適切になってしまったルールに黙って従っていて国益を損なわせるのは、よろしくありません。最近になって、法律はもとより憲法すらも変えるべきものは変える、という機運が盛り上がってきていると思います。(憲法の他の部分はまた別の話かと思いますが)単年度予算主義の部分については改善していただいたほうがうれしい、と思うのは私だけでしょうか(研究費にかぎったことではなく、年度末の道路工事の増加、とかは一納税者として愉快には思えませんし)。 最後に一言付け加えておきますと、「ムダ」という言葉を使っていますが、これは研究費が余っていてムダがでているという意味では全くありません(そういうところも中にはあるでしょうが)。研究費は全く足りていないのにもかかわらず、貴重な研究費や労力を浪費してしまわざるを得ない仕組みが存在するということです。そのよろしくない仕組みの親玉みたいなものが単年度予算制度、ということですね。 ということで、この問題について皆さんいかがお考えでしょうか。単年度予算制度のためにこんなムダが生じている、こんな目にあった、などの情報やエピソードがあればお寄せいただけますと有難いです。忌憚のないご意見ももちろん歓迎です。アンケートも実施していますので、ぜひご回答ください。よろしくお願いいたします。 藤田保健衛生大学・教授・宮川剛 (この意見は筆者が所属する組織の意見を反映しているものではありません) ——-

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学会なんかいらない!

SKONDO-300

実は、最近学会に関して強く思う事が有ります。たくさんあり過ぎなのじゃないか?と。しかも、 分子生物学会と生化学会をはじめとして、内容の重複が激しい。共同開催をするくらいなら、 いっそ合併して、減らしてしまったらよいのに。 そもそも、学会の枠組み自体が、昔と今ではちがいます。30年前くらい昔は、ずっとシンプル でした。例えば、動物の形態に関心があれば、発生学会に入っていればよかった。もうひとつく らい加えるなら、動物学会でいろいろな生物を見る、とか。学会の名称は、おおざっぱの興味の 対象を表現しているだけなので、どんな人でも入ってこれそうです。実にシンプル。 しかし、最近は様様な切り口で、もっと専門的な学会が作られています。例えば、同じ動物を使 う人が集まって、モデル実験動物ごとに学会が作られます。さらに、同じ実験技術をつかう研究 者、開発する研究者が集う学会。さらに、「生命をシステムとして理解する」とか、「生命を作 る」という思想で研究者がまとまって学会ができています。研究は1種類でも切り口は無数にあ り、それごとに学会を組織することが可能で、実際にそうなりつつあります。いろんな学会に行っ て、結局同じメンバーでつるんでばかり、とか有りませんか? そもそも、本当にそれらは全部必要なんでしょうか? 今は、ITの進化で、研究者同士がコミュニケーションを取る方法はたくさんあります。海外の 研究者と直接コンタクトすることは、以前よりもはるかに簡単になったし、海外の学会に行く資 金的なハードルも低くなっています。単に情報交換のため、と言うよりも、研究者仲間の「社交」 をしにいっているだけなんじゃ?例えば、そこには自分が近未来にサブミットする論文や、グラ ント申請書のレフェリーになる研究者がいる可能性が高いので、研究の宣伝をできるだけしてお きたい、とか。 「無いよりは有った方が良い?」という意見もあるかもしれません。 いえいえ、そんなことないです。デメリットたくさんあります。 だいたい、しょっちゅう学会に行きまくってたら、疲れてしまうというか、研究している暇が無 くなります。研究に取って最大のリソースは「考える時間・実験する時間」です。情報交換は確 かに必要ですが、独創的なアイデアは孤独な思考からしか生まれないんじゃないでしょうか? それに、開催する手間だって費用だって大変だ。分子生物学会くらいになると、会場にWi-Fiの ネット環境を整備するだけで1000万とかかかったりします。会員が5000人参加し、参加 費、旅費、宿泊費で平均5万円かかるとすると(多分、そのかなりが研究費=税金です)2億5 千万かかります。それだけのメリットがあるのか?さらに、主催する関係者の労力と時間も計り 知れない。たいていは、その分野のリーダー的な研究者がやることになりますが、研究にマイナ スであることは間違いありません。その上、学会組織が「法人格」を持つことが必要になってき ているため、規約等の整備などの「組織を維持するための事務」も半端じゃありません。 以上を考えると、(過剰な)学会の存在は、日本の科学の進歩に関してマイナスであるように思 われます。会員が減って困っている学会、演題が集まらないのでぎりぎりまで演題募集をする学 会、しょっちゅう年会の共同開催をする学会、そういう学会は、速やかに解散するか、他との合 併を図るのが、関係者諸氏にとって一番良いのではと考えます。 (じゃあ、分子生物学会はどうなんだって?う~ん、、、、、) 2013年、分子生物学会年会長 近藤滋 (この意見は筆者が所属する組織の意見を反映しているものではありません)

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