2015.10.24 トピックス
アンケート結果への科学政策改革タスクフォース戦略室長・生田知子さんのコメント
アンケートで上がった主な問題点について、文科省の生田さんにご意見を伺ってきました。
以下、一問一答式でのお答えです。(コメントは、文科省科学政策改革タスクフォース戦略室長生田氏の個人的なコメントであり、文科省の公式見解ではないことにご留意ください。)
近藤:研究費が少ない、大学の運営費が減っているのが元凶、と言う意見が多数ありますが、増やすことは可能でしょうか?
生田:若年層の人口(20歳前後の人口はピークの半分くらいしかない)の減少と国の厳しい財政状況を考えれば、単に増額するのは無理だと思います。文科省としては、精一杯予算を確保する努力をしておりますが、そのためには税金負担をしている国民やその意を受けてリソース配分を行っている財政当局に十分その必要性・効果を理解してもらうことが一番重要であるという現実をご理解ください。
近藤:どういった状況になれば増額は認められるでしょう?
生田:基礎科学の重要性に対する国民のコンセンサスを作る努力をすることが、研究者、役人、共に重要だと思います。
近藤:最近のノーベル賞受賞者が地方大学出身で有ることからも、サイエンスには裾野の研究が重要であり、そちらの方がコストパフォーマンスも良いと言う意見も有ります。
生田:「選択と集中」に対する反対意見ですね。先ほど申し上げたように、行き過ぎた集中に対する反対意見は、省の中でもあります。当然ながら知の源泉のタネを多く蒔いて裾野を広げ、未来の可能性を広げることは重要と考えています。結局はバランスの問題となりますが、どの程度のばらまきと集中のバランスが最適であるか、具体的な意見やデータがあればもっと議論も深まるのではないかと思います。
近藤:支援する分野が、応用研究に偏り過ぎである、という意見も多かったです。
生田:文科省としては、基礎の研究が重要であることは認識しており、必要以上に応用研究に集中しようという意図は有りません。まさに大変革時代における社会変革に挑戦し続けるためにも、日本発の「ゲームチェンジ」を興す新たな価値創造が求められているのではないでしょうか?第5期科学技術基本計画の検討過程においても、基礎の重要性を主張しているつもりです。しかし、出口が解りやすい研究の方がその成果を享受する具体的なイメージがしやすいことから、国民や財政当局からの理解が得やすいのも事実です。いずれにしても、応用と基礎のどちらかに寄せるという単純な問題ではなく、そのバランス論や基礎と応用の関係のうまい見せ方次第ではないかと思います。
近藤:競争的な環境が行き過ぎているため、研究者と言う職種自体が敬遠されているという意見も有ります。
生田:競争環境もその通りかもしれませんが、そもそもアカデミアの場における研究者としてのキャリアパスの具体的なイメージが出来ない、身近にモデル像がいないことが、研究者の職種が敬遠されている原因ではないでしょうか。
近藤:20年前に大学院の重点化を進めたことで、現在40歳前後のPDがたくさんおり、非常に厳しい就職難になっています。この年齢層に対する何らかのケアは可能でしょうか?
生田:難しいと思います。財政当局の視点からすると、その年齢層の研究者に対して、大学院重点化を通じて高額の投資をしたという解釈になっており、その人達をケアするための別途の予算措置は理解を得られないのではないでしょうか。本来であれば、産業界が、その人材を吸収するはずだったのですが、産業界と大学とのミスコミュニケーション、さらには90年代からの不況がそれを不可能にしたのではないでしょうか?
近藤:トップダウンのプロジェクトに関して、分野の選び方、研究者の選考が不透明であるという意見も多かったです。
生田:政府全体のリソースのうちR&D投資のパイを増やすためには、ある程度何らかの分野・領域を強調して常に新しい分野を切り拓いていくことが必要です。厳しい国際競争下で日本の目指す方向性を国として提示し、これを効果的・効率的に進めるためにも、トップダウンのプロジェクトは不可欠であると思います。その際、どのような分野に張っていくかは、官僚だけで決めているのではなく、広い見識を持つと思われる複数の研究者や企業人などの有識者へのヒアリングなどを通じて決めています。研究者の多くが、分野に偏りがあると感じるのであれば、その「有識者」の考えと研究者のマジョリティにずれがある、と言うことでしょう。確かに、少数の研究者だけにヒアリングして大型予算を決めることには危険があると思います。しかし、今のところ、それ以外に方法が無い状況をご理解ください。もし、学会などで、研究者社会のコンセンサスを取っていただき、それをベースにしたプロジェクトを持ってきていただけると、こちらとしても理想的ですが、学会でそう言ったことが可能でしょうか?
近藤:う~ん、今のところできそうもないですねぇ。
近藤:忙しすぎて考える時間が無い、と言うのも多くの研究者の感じていることです。運営費交付金が減っているので、文科省から何らかのプロジェクトが提示されると、それを獲得するために全力を尽くさざるを得ません。その過程で、現役研究者がどのくらい疲弊するかを考えたことが有るでしょうか?
生田:現場の研究者が研究活動に割ける時間が減っているという話は良く聞きます。本来的には研究者を支援する部局が有効に機能していれば、現場の研究者が疲弊することはないはずなのですが、特に日本の場合は研究を支援する者に対する理解が進んでおらず、キャリアパスとして構築されていないことも原因ではないかと感じています。
近藤:大型研究費を多数に分割する方が、全体として効率的である、という意見も多かったです。大型研究費の場合、大勢の研究者が集まっているわけですから、何らかの成果が上がるのは当然です。しかし、スポンサーの文科省としては、その資金を他の研究に回した時との差を評価するべき、という意見ですが如何でしょうか?
生田:そのあたり、具体的なデータ等があれば改善できると思います。様々な主張をしていくためには、昨今は特にエビデンスベースが求められており、是非そうした観点でアカデミア側からも情報提供いただけると我々としても政策形成につなげていけるのではないかと考えます。
どうでしょう?何かひとこと反論したくなるような回答ですよね。さあ、盛大にコメント欄に突っ込んでください。「これは鋭い!」というご意見を集めて、再び文科省に行ってまいります。
BMB2015ガチ議論企画スタッフ 近藤
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すごいですね。この期におよんでもんじゅに438億7200万円突っ込むエビデンスを文科省は国民に示す必要があるんではないですか。原子力トータル1854億4100万円ってどんだけ焼け太りですか。
文科省の予算は運営費交付金や科研費だけではないですから、配分が本当に合理的なのか、概算要求を眺めながら仕訳してみるのも面白いのではないでしょうか。
http://www.mext.go.jp/component/b_menu/other/__icsFiles/afieldfile/2015/10/01/1361289_2.pdf
> あとこのセンターでは,現場の意見は,それこそ必要に応じて関連学会を通じて頻繁に吸い上げています。それは事実とは合っていないと思います。僕はたくさんの学会に入っており、理事や評議委員などもしてますが、学術システム研究センターに意見を聞いていただいたことはこれまで一度もないです。副センター長をもう8年くらいされている先生と、研究者コミュニティからの・・・
分科細目の再編や,時限付き細目の検討についは,関連学会に意見を求めたことが何度もありました。
また生物物理学会では,毎年の年会にセンターの事務の方に来ていただいて科研費の説明のセッションをおこなってきており(センターの研究員の仲介),そこで現場との意見交換も行っていたと思います。
ただそもそも,センターが予算配分システムについて何らかの提言を行うことはあまりできないので,そういう意味では「必要に応じて意見を求める機会」は多くないかもしれません。
おっしゃるように,センターが予算配分についてもっと提言を行うとか改良にタッチできるようになれば(こうしたことはほとんどは文部科学省サイドの審問委員会のようなところでおこなっています),もっと意見を吸い上げる機会が増えるでしょうし,そうであったほうが良いと思います。
遠藤先生、詳細なご説明ありがとうございます。
> あとこのセンターでは,現場の意見は,それこそ必要に応じて関連学会を通じて頻繁に吸い上げています。
それは事実とは合っていないと思います。僕はたくさんの学会に入っており、理事や評議委員などもしてますが、学術システム研究センターに意見を聞いていただいたことはこれまで一度もないです。副センター長をもう8年くらいされている先生と、研究者コミュニティからの意見の吸い上げについてお話をしたことがあります。僕は、ネットを使ってアンケートを行うようなことが有効ではないでしょうか、と申し上げましたが、「一般の研究者の意見がよいとは限らないので、そういうことをしても意味があるかどうかわからない」というご意見をいただきました。センターで長く幹部をされている先生のおっしゃることですので、おそらくセンターのお考えを反映しているように思います。文科省の斉藤さんがおっしゃられていた、2割の先生方のお話 http://scienceinjapan.org/topics/072715.html とも方向性は一致するわけですし、それは一つの見識とも考えられるわけです。しかし、研究のシステムにしても、トップダウンプロジェクトの選定にしても、一般研究者の意見を広く集約しておけば、こんなことには間違いなくならなかったであろう、という案件がたくさんあり、その意味では、今の学術システム研究センター(の副センター長)のご意見・方式ではうまくいかないのでは、と考える次第です。
センターのデータベースは価値がものすごく高いと思います。Researchmapと連動するなどしてもっとオープンな仕組みにして、最大限活用されるような方向性に持っていくのがよいのではないでしょうか。
JSPSやJSTでプログラム・オフィサーを充実させることは非常に重要なのではないかと思います。この案 http://scienceinjapan.org/topics/20130925.html のアドミン・トラックに入った方々の一つのキャリアパスのあり方として、プログラム・オフィサーとしてファンディング機関で雇用されるというのもありなのではないでしょうか。米国NIHの強みの一つがプログラム・オフィサーの存在だと思いますが、日本でもぜひそのような方向性で博士をより活用してもらえないものでしょうか。
いまどき博士課程の定員を増やすというのはちょっとなんですね。
しかしながら、現状では大学間競争は厳しいようで、実際は古くからの学部偏差値でほぼ競争は決まっており、(今の仕組みであれば)そういう大学順位の大きな変動はほぼないと予想します。
「1. 構成メンバーが教授以上クラスしかおらず、准教授ですら一人もいません。」 JSPSの学術システム研究センターの最も重要な使命は,科研費の審査委員の選考です。センター設立以前は,科研費の審査委員は各学会推薦のリストから選んでいました。しかしそこに学会の既得権益,ボス支配など様々な問題があったため,これを廃止してNIH的な,研究者主導の,しかし既存学会からは独立したファンディングエージェンシーをつくろうとしたわけです。問題はそこのメンバーを決めるのにはどうしたらよいかということですよね。
現在は各大学からの推薦リスト+センター研究員の推薦に基づいてメンバーを選定する仕組みになっています。ここでの選定過程や候補者リストは公開されていないこと,最終的には選定するのはセンターのかなり上の方(理事レベル)になることから,不透明性があるのは事実です。一定期間経過後に選考過程を公開するような仕組みがあってしかるべきだと思います。また,科研費の審査委員を決めるという実務作業においては,その分野の研究者全体を広く見渡せる必要があることと,かなりのエフォートをとられるため,必然的に教授クラスが多くなっています。ここに問題があるとのご指摘は理解できます。いちおう,選考に当たっては定年間近の人は避ける,年齢バランスなども考慮していますが,結果的にはやはり年齢は50代中心になりがちです。
もしトップダウン予算についても扱うのであれば,助教・准教授クラスの人をどう組み込むか,という問題はあると思います。トップダウン予算の配分は次の世代の研究者にも大きく関わることですから,准教授(+助教)クラスの人たちと連携して作業するような仕組みも重要でしょう。あとこのセンターでは,現場の意見は,それこそ必要に応じて関連学会を通じて頻繁に吸い上げています。
「3. 大学・研究機関の推薦- 現研究員などによる選考で構成員が決まる仕組みとなっており、広く研究者コミュニティあるいは特定の分野を代表する人が選ばれるlegitimateなシステムになっていません」 研究者コミュニティを代表する人が選ばれる,正当性をもったシステムとは何でしょう。かつての科研費審査委員を学会から推薦するようなシステムなら,たしかに正当性はそれなりに得られますが,本当に公平な予算配分が可能でしょうか。学会では良い研究をした人が必然的に力をもってきますが,そういう人がここで行われているような実務作業に向いているとは限りませんし,公平性という視点に欠けている場合もあります。センターでは科研費審査の内容について精査した膨大な情報がデータベースとして蓄積されています。丁寧な審査をしてくださった研究者の方々には顕彰制度があるのは多くの方がご存じだと思いますが,実はネガティブデータも継承されています。国際的にトップレベルの研究をされている大先生がいいかげんな審査をしている例があるという事実も含めて,極端な審査をしたり,利益誘導がうたがわれるような審査をした人は,バッドマークがついています。こういうデータも考慮した上で,科研費の審査委員やその選考に関わるセンター研究員を選考していくことは重要かと思います。
「4. この組織は基礎研究を担う科研費のあり方、審査員を選考するという、・・・」 科研費タイプとトップダウンの予算の両方を扱うことに夜権力の集中についてのご指摘はもっともだと思います。それは十分に配慮する必要があるでしょう。私が感じるのは,JSPSにもJSTにも文部科学省にもにたような組織なり人がいるのに,その間の連携がとれず,ミッションが限定されすぎていることです。そういうものを束ねて公平な審査や予算配分が可能な機関をつくる必要性を,強く感じるところです。そうした機関には十分な事務職員も必要ですし(学会にはそうした予算がないことも問題です),本来はエフォート100%の専任の,できればアカデミアから出向してくるようなプログラムオフィサーが必要なところですが,日本ではキャリアパス的にそういう人を確保することが困難です。
国立大学協会が財務省案に批判声明
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151027/k10010284491000.html
国大協のいうように、本来、運営費交付金問題は教育機会の問題とするのが正しい筋のような気がします。ただ、優れた人材を社会に送り出す教育ということならポスドク問題はなんなんだ、といわれてしまうのでしょうが。
「大学発ベンチャー1000社計画」は存じてませんでした。
産学連携の際の利益相反問題は、大きな問題ですね。いろいろと問題のある産学連携も多々あるように聞きます。それはそれで、研究者コミュニティがきちんと議論し、より良いガイドライン的なものを作っていく必要があると思います。
> しかしこれは配分方法を考慮するとことで回避できるかも知れませんね。
そういうことだと思います。アメリカの大学では、自己収入比率極めて高いと思いますが、小さい単位のアシスタント・プロフェッサーのラボがたくさん存在するわけですし。また、話題になっている「卓越研究員」は必要な資金さえ取得できれば、一人PIとして独立できるわけです。
他の職種の方々にリスペクトを、というのは、研究者の倫理ということもありますが、人間としての倫理というような気もしますね。どんな職業の人でも多くのサポーターのおかげで生きている、ということに例外はないでしょうので。文化レベルとか民度の問題かもしれません。
> 総花的学会,あるいはそれらの連合である生科連に,生命科学分野の重点的なテーマをきちんと順位付けするなどという作業ができると思われますか?
それはトピックの性質によってケースバイケースということではないでしょうか。例えば、過去のヒューマンゲノムプロジェクト的なものであれば、むしろ総花的学会か生命科学連合的な組織で議論し、洗練させ、主張するのが適切な内容のように感じます。現在、ヒューマンゲノムプロジェクトに対応するようなプロジェクトがありうるかどうかはまた別の話ですが、学術会議で出ていた100万人全ゲノム解析プロジェクトのような案についても総花的学会ないし生命科学連合的な組織が適切だと思います。100万人全ゲノム解析プロジェクトのようなものについては、僕のような一般研究者でも意見を述べたいと思っている人が多いのではないでしょうか(例えば脳科学や心理学も参加させてほしいところですがそういう話にはなっていないのでは)。しかし、そういうことを議論させてもらえる場はありません。
JSPSの学術システム研究センターやJSTのCRDSは、遠藤先生のおっしゃるように超大型のものについて議論・調整する場としてのポテンシャルを持っているように僕も思います。
ただ、現状の学術システム研究センターにはそのような場を担う組織という観点からは、以下のような点で決定的な問題があると思います。
1. 構成メンバーが教授以上クラスしかおらず、准教授ですら一人もいません。
https://www.jsps.go.jp/j-center/po.html#p1
世代的にシニアに偏りすぎだと思います。助教・准教授クラスの研究者をバランスよく配置すべきだと思います。
2. (1と関連していますが)若手・中堅などの研究現場により近い研究者の意見に耳を傾けたり議論したりする仕組みが備わってないように思います。1と合わせて、意見が偏るように思います。ネットなどを使ってもいいので、現場の意見を吸い上げる仕組みが必要です。
3. 大学・研究機関の推薦- 現研究員などによる選考で構成員が決まる仕組みとなっており、広く研究者コミュニティあるいは特定の分野を代表する人が選ばれるlegitimateなシステムになっていません(これは日本学術会議も同じ問題を有しています)。分野の利益を代表する人であれば、その分野において何らかの透明性・公正性のある選考がなされるべきだと思います。
4. この組織は基礎研究を担う科研費のあり方、審査員を選考するという、ある意味大きな権力を有してらっしゃいます。ボトムアップの基礎研究も担い、かつトップダウンの研究も選考できてしまうというのは、権力が集中しすぎになってしまうと思います。各種審査・評価をする研究者がごく少数のいつも同様な大御所先生かた構成されるメンバーになってしまっていることについて、研究者・研究トピックの多様性の確保の観点から問題が大きいという指摘が多々あります。基礎研究のあり方を決めるところと、トップダウン研究のあり方を決めるところは別の組織、あるいは最低限別の人的グループが担うべきだと思います。
このあたりが解決されてくれば、かなり良いような気はいたします。
>事務の方々は研究を進めていくためには研究者と同等の存在
この辺は生田さんの指摘にも関連しますが、研究者の多くは研究者以外のキャリアを軽んじている傾向があるように思います。事務や研究支援を「雑用係」のように扱う研究者をみながら学生生活を送れば、学生やポスドクがそういったキャリアに進もうと思わないのは当たり前です。これは制度というよりは研究者の倫理や意識の問題になるので難しいですが。
財務省の資料は拝見しております。先生のご指摘のように「最適バランス」の記載があることも認識しております。しかし、一方で施策として自己収入50%という目標を立てると、結果として小研究ユニットが減少するのではと言う懸念を述べました。しかしこれは配分方法を考慮するとことで回避できるかも知れませんね。いろいろやり方はありそうです。
一方の見方としてこういう意見もありますという主張は、きめ細かな議論には必要です。本件が今議論の対象ではないというご意見は承りました。
人材育成については、現状できていないのだからメッセージにはならないとうことですね。確かにそれはその通りですね。研究支援を社会から受ける上では大事なことということで、少し強く書きすぎました。
産業化そのものに反対する気は毛頭ないのですが、またこれは文科案件ではないかもしれませんが、ポスドク1万人のみならず大学発ベンチャー1000社計画というものも走っていたことはご存知でしょうか。これも成功したとは言い難いと思いますが、その総括もする必要があると思います。
また例のSTAP騒ぎでも個人へのゴシップ的バッシングは盛大でしたが、某ベンチャーとの関連などビジネス絡みのグレー領域への追及は弱かったように思います。医薬領域での利益相反は世界的に大きな問題になりつつありますが、基礎系の科学者はそういった社会的関心が薄いので後々泥沼に陥らないか非常に心配しています。
> 多様性についての私の説明をスキップされているので、理解が共有できておりませんが
田中先生、この財務省の資料をご覧いただきましたでしょうか。「費用対効果の観点で(少額な)若手・基盤向け研究費との最適バランスも検討」との提案が明記されており、その点を最初に指摘しておりました。これは、最適バランスは現状から基盤向けのシフトしたところに存在する、と財務省の資料が主張しているということです。
基礎研究も産学連携もそれぞれ固有の問題があるので、個別のことについては、(ガチ議論本番後に)追って別トピックをたてるなどしてじっくり議論するのが良いのではないでしょうか、ということです。きめ細かな議論を十分にしないまま、産学連携のマイナス点のみ指摘するのは得策とはいえないという意見です。
> 研究コミュニティが人材育成に真摯に取り組んでいるというメッセージを是非打ち出していただきたい
それは現状の多くの場所では十分に取り組まれてはいないのでは、という具合に僕は認識してます。ですので、そういうメッセージは今は出すべきでないと思います。研究者コミュニティは、人材育成に関する現状を深く分析した上で反省するべき部分はしっかり反省し、人材育成をしっかり行うことのできる仕組みに改善する具体案を出し、その上で、その種のメッセージを始めてはっすることができるのではないでしょうか。
多様性についての私の説明をスキップされているので、理解が共有できておりませんが、スーパカミオカンデや高IFの基礎研究の心配をしているのではなく、ごく小さな研究ユニットにおける研究のことを指摘しております。ごく小さな規模の研究の中には将来のブレイクスルーに貢献するようなものも含まれているわけですが、それは現時点で選別できるようなものではありません。そのようなものは、ある程度意図的に支援しなければ消えていくだろうということです。支援するのは国家である必要はないのですが、我が国では財団等がそうした役割を担うことはまだ難しいと思います。
基礎研究でも近視眼的なものが多いというのは確かにそうですね。これは評価の問題と関わるので、現状のIF重視の傾向などをどう改善していくかという議論につながるように思います。産学連携についてはマイナス面を指摘するので、私が反対しているように見えてしまいますが、そうではありません。しかし、私が指摘していることは根拠がないわけではなく、そうしたマイナス面を改善することも重要だと思います。小さなスケールの産学連携だと製品化につながらないという理由で打ち切りになることはしばしばですし、決断するまでのスパンは企業の方が短いです。別の場で宮川先生に大変素晴らしい実例を例示していただきましたが、企業側にもあるべき産学連携の姿を再び議論いただく場があると良いと思います。
人材育成、特に大学における研究室の教育機能についてのご意見は全く同感です。これまでもそういう意味でどこに出しても恥ずかしくない人材を輩出してきた研究室もありますし、一方で先生が批判されるように単なる労働力としてしか考えてこなかった研究室もあります。後者の研究室出身のポスドクの方が苦労されていることは間違いありません。この点は大変重要で、研究コミュニティが人材育成に真摯に取り組んでいるというメッセージを是非打ち出していただきたいと考えています。こちらは確かにアカデミアの問題ですが、産学連携のウェイトが高まっていくとすれば、その影響を軽く見てはいけないと考え、意見を述べました。
「基礎研究は現状でも厳しい研究環境」というのは正確ではないでしょう。いわゆるCNSをはじめとする高IF誌に論文がある研究者は、超基礎研究でも巨額の研究費を得ることができているはずです。また、スーパーカミオカンデから得られた成果は何の役にもたたないと明言されてますし、建設費1兆円の加速器の建設も真剣に検討されているわけです。
一方で、応用にかなり近い研究でも高IF誌に論文がなければ、研究費を取得するのは困難な厳しい研究環境にあります。
人材育成についてですが、仮に「人材育成という観点が財政審の資料にはない」としても、それほど驚くことでしょうか。財政の観点に主に意見が述べられているわけですので。しかし、実際はこの資料には、雑用が多すぎて教員が教育に専念できない現状が指摘されており、教員ではない周辺の補助をする人の協力を増やして、教育に専念できる環境をつくることが提案されていますね(これは初等中等教育のことでしょうが大学でもそのまま当てはまるのではないでしょうか)。僕はその提案におおむね賛成です。
加えて言えば、人材育成という観点からも、産学連携は現在の状態から増やす方向に動かしたほうがベターである、と僕は思います。ポスドク問題の解消の一つは、産業界との良好で健全な関係を強めることではないでしょうか。田中先生のおっしゃっている「産学連携の促進は、関連分野の健全な発展を阻害している」とか、「近視眼的な研究や、研究不正が増加する」というご意見は、ある意味でアカデミアの基礎研究者を代表する典型的なお考え・感じ方なのではと思います。しかし、近視眼的な研究や研究不正は、産業と無関係な基礎研究でも多く発生している、というのが僕の認識ですし、昨年のSTAP問題はその極端な典型例だったと言えるのではないでしょうか。そういうお考えの基礎研究者が日本ではいまだに多い、ということが、日本のポスドクが産業界に敬遠される要因の一つになっているのでは、と感じます。
あと、欧州PIさんもご指摘されてましたが、人材育成の責任の一端は、アカデミアにもあるのは間違いないです。大学院生・ポスドクを単なる安い労働者として消費してきたのは、他でもない多くの大学の教員ではないかと思います。「研究活動は問題解決能力の涵養につながり、様々な分野で活躍する人材を育成するという効用があります」というのは、完全に同意いたしますが、それは、研究計画立案&提案、実行、結果の解析・解釈、結果からの計画修正、結果のまとめと報告、論文の執筆、学会での発表というような一連のプロセスをすべて経験してはじめて言えることでしょう。そのすべてにおいて、十分な指導が行われてきたのでしょうか。この一連の作業においてしっかり訓練された人材は間違いなくつぶしがきいて、産業界でも活躍できるものと僕は思います。そうなってはいない、ということなのではないでしょうか。文科省、財務省のご意見とその根拠をしっかり理解し、研究者コミュニティ側の問題をきちんと整理・認識し、その上で、より良い方向性、具体案をともに考えていくことが重要なのでは、と感じます。
全く同感です。大学の教員は研究 and/or 教育にフォーカスし、他の雑用は極限まで減らす、というのが税金の使いみちとして、最も効果的・効率的なことだと思います。
この「中央雇用の日本版テニュア・トラック制度」
http://scienceinjapan.org/topics/20130925.html
でも「アドミントラック」と「マイスタートラック」があり、博士号を持つ人もそれらのトラックに移動できるようなルートが考慮されています。
この案のリサーチトラック中の最上位のミニPIに相当するものが、現在、真剣に検討されている「卓越研究員」制度に該当すると思われますが、これの導入後に、「アドミントラック」と「マイスタートラック」も導入してもらい、そちらのほうに適性がありそうな人に異動していただく、というのはかなり現実的にも有効な方法ではないでしょうか。
あと、補足しておきますと、この提案の制度は中央雇用の派遣社員のようなものですので、一般企業にも派遣され得る、ということです。一般企業は終身雇用のリスクを負うことなく博士のスキルを活用できることになるので、産学連携の推進の意味でもウィンウィンになると思うのですが。
いかがでしょう。
私も正直,この答えはないな,と思いました。公教育とは,次世代のわが国を担う国民を育てることが目的なわけで,そこにどのくらいの投資をすれば十分とか,不十分とかいう,客観的尺度はないと思います。逆に言えば,国民がもっと投資しても良いと思えば,大学や大学院にもっと手厚くお金をつぎ込めるでしょうし,そうでなければ,もう十分だということになるのでしょう。
冷静に見て,一般国民が大学を見る目は冷たいと思います。多くの国民が,大学は多すぎる,大学はまっとうな教育をしていない,と思っているのではないでしょうか。私は必ずしもそうだとは思いませんが,財務省が用意するデータも,それをたれ流すメディアも,そういう厳しい方向を向いているのが現実だと思います。このような流れの中で文部科学省が用意した国立大学法人生き残り対策が,大学教育・大学院教育のグローバル化や企業の即戦力になる人材提供,ということなのでしょう。それでよいのでしょうか。
学会に対する見解ですが,小さな学会,たとえば私が所属する蛋白質科学会が蛋白質科学の重要性を主張することはできるでしょうけれど,現在の生化学会や分子生物学会のような総花的学会,あるいはそれらの連合である生科連に,生命科学分野の重点的なテーマをきちんと順位付けするなどという作業ができると思われますか?私は,まず不可能だと思います。また,たしかに政治家は国民の負託を受けた代表ではありますが,専門的な見識もパースペクティブをもっていない人たちに,高度に専門的な内容を十分に理解してもらったうえで,重要テーマの直接の選別を行ってもらう,というのはやはりきわめて難しいし,危険だと思います。政治家は,まずきちんとした選別ができる仕組みをつくり,最終的な推薦結果を政治的判断で承認するのが役割ではないでしょうか。
それではどんな仕組みなら,きちんとした選別ができるのか。私はJSPSのシステム研究センターに3年いましたが,あそこは長い時間をかけて多くの研究者が膨大なエフォートを投入して,審査だけでなく配分までも可能なファンディングエージェンシーとしての基盤を既につくっています。しかし文部科学省とJSPSの力関係でしょうか,いまのところ単なるピアレビビューの推進機関という役割に甘んじています。しかし,実際にはけっして少数ではない,学術の全分野の人たちが参画している機関であり,すでに自分の分野や組織の利害を離れて,さまざまな議論を行える場となっています。私はああいうところを核とした機関,あるいはJSTの同様の機関と合体させた機関でもいいですが,そうした機関が,学術の分野を超えて何が重要なのかを選別し,提言していくのが一番フェアなのではないかと思っています。もちろん,そういう機関をあらためてゼロからつくってもいいですが・・
この年齢層に対する何らかのケアは可能でしょうか?
生田:難しいと思います。
の件です。
財政審議会の資料の話題になっていますが、これは重要な議論のたたき台になると思います。ここで、小中学校の教員の授業時間は少ないのに勤務時間が長いという実態にも触れられていて、教員が授業に集中できるように事務負担を専門職員を活用して軽減すべきという提言がなされています。大学や研究所の研究者に関してはそういう指摘はありませんが、実態は似たようなものがあるはずです。40歳超のポスドクの人材活用の道として、そういう専門職員という道があっても良いのではないでしょうか。事務の方々は研究を進めていくためには研究者と同等の存在、というのは最近特に実感するのですが、研究者の専門知識を事務方へ積極的に活かすことはできないものでしょうか。政策的にはリサーチアドミニストレーターの拡充ということになるのかもしれませんが、もっと広くその業務内容を捉えられるようなポジションがあっても良いと思います。
>宮川先生
企業のアドバイザーもされているのですね、制度設計の部分では意見を異にしますが、自分の研究だけに留まらず日本のアカデミアの改善の為にエフォートを割かれている宮川先生にはいつも感服します。
「医学界」とするのは広すぎますが、あのような動きがあるなかで、コミットする人が少なすぎるのも大きな問題かなと思います。
追記ですが、このような情勢の中、博士課程の定員を増やした京大医学部の教授陣は頭の中がお花畑と言われても仕方がないでしょう。また前総長憎さに白眉プ
ロジェクトを中止してしまった京大本部も何を考えているのか。現在はiPSで一息ついていますが、若手・女性に積極的に投資している名古屋大学などに中長期的には負けていくのかなと思ってみています。
エビデンスベースの議論から外れてしまいますが、二つの観点から財政審への意見を書き込みました。
一点目は、現代社会からの要請がない分野の基礎研究は現状でも厳しい研究環境であるという認識を持っているのですが、産学連携を通じて自己収入を増やすという流れが奨励された場合、そうした「すぐに役立たない」基礎研究の一部は縮小、消滅せざるを得ないということです。多様な基礎研究は大きなブレイクスルーが生まれる土壌であり、国家としても多様な専門家を擁するというメリットがあります。
二点目は、高等教育としての人材育成という観点が財政審の資料にはないことです(もしかしたら見当違いの意見でしょうか)。研究活動は問題解決能力の涵養につながり、様々な分野で活躍する人材を育成するという効用があります。そのうちの一部は研究人材としての貢献が期待されます。産学連携を含む昨今の多様な大学のあり方の中で、どう人材育成をするかということは是非考えておくべきではないでしょうか。
二点目は国立大学のみの機能ではありませんが、一点目については受け皿がないので危機感を持ちました。
なお、財政審の提言をピックアップしたコメントでは、言葉足らずで不快に感じられた方がいらっしゃったようで、申し訳ありません。産学連携そのものについては、別のところにも書き込みましたが、その価値を認識しておりますし、素晴らしい試みもあることは存じております。光と影の、影の方を強調しすぎてしまいました。
ごく最近まではたいていの場合主観を中心にして施策が決められていたことについての反省で、ごく最近、エビデンスが求められるようになってきた、という経緯だと理解してます。エビデンスについては、できるだけあったほうがよいのは間違いないと思いますが、この種のものはエビデンスで自動的に判断できるようなものはほとんどないでしょうので、最終的な決定は主観やリーダーシップによらざるを得ないということになるのではないでしょうか。
文科省だけでなく省庁はどこもそうだと思いますが、2年とか3年のごく短い期間で、様々な部署を動いてしまうので、責任というものを取りにくい仕組みにそもそもなってしまっているのではないでしょうか。そのため、改革のための施策もちょこちょこした小さな単位になりがちで、大きなグランドビジョンのようなものが欠けていることがほとんどだと思います。ですので、リーダーシップを期待するとすれば、やはり科学技術に日本の未来を見出してくださるような政治家だろうと思います。しかし、残念ながら日本では、そういう政治家は票がとりにくい、という現状があり、研究者コミュニティとしてはそこをなんとかする必要があるんではないでしょうか。
「研究者コミュニティで十分に議論し揉んで洗練された案を政治家の方々に説明する」ということをロビー活動と呼ぶとすれば、それは行うべきと思います。「一部の研究者のコネクションを使って官僚がトップダウン予算の領域を選定していくようなやり方」は現在では最もよく行われている方法だと思いますが、それについては遠藤先生と同様に僕も賛成ではないです(現在では事実上「最も有効」に行われてしまっている、というだけです)。
政治家の方々に持っていくアイデアについては、ファンディングエージェンシーがピアレビューで選別し洗練させるというのもありだと思いますが、10億円以上の大型予算はやはり少数の研究者だけでなく、研究者コミュニティの多くの研究者からも意見を聴取したり議論したりして、その結果を反映させるべきと考えます。その場としては、やはり学会が重要な役割を果たすのがよいのではないでしょうか。学会は利益団体ともいえますが、同時に公共性を帯びた団体でもありますし、利益団体がそれぞれ利益を主張し、それらから国民の代表である政治家が最も良いと判断するものを選択する、ということで十分フェアになると思います。
私は,ロビー活動や一部の研究者のコネクションを使って官僚がトップダウン予算の領域を選定していくようなやり方の奨励はあまり賛成できません。
学会から意見を吸い上げて決めていくというのも,(学会は利益団体ですから)むずかしいです。
私はやはり研究者側のプログラムオフィサーやディレクターを多数抱える(兼任ですが),JSPSのようなファンディングエージェンシーに,ピアレビューに基づいて,トップダウン予算の配分までまかせるような体制が必要だと思います。
財政審議会の文教・科学技術に関する最新の資料がでてます。http://www.mof.go.jp/about_mof/councils/fiscal_system_council/sub-of_fiscal_system/proceedings/material/zaiseia271026.html
これを見ると、「過度の集中(使い切れないほどの研究費が特定の研究者に集中)や不合理な重複(同一の研究者に同一の課題で複数の資金が配分)により配分が歪んでいる可能性」があり、「複数の(大型)研究費を獲得している研究者について、研究時間・資源の管理を徹底し、場合によっては配分額を減額するルールを策定し、適正な配分を実現。あわせて費用対効果の観点で(少額な)若手・基盤向け研究費との最適バランスも検討」することが提案されています。これは、今回のアンケートでも指摘・提案がかなり多かったポイントです。
「共用化設備等向けの大学の経営資源を増やし、「大学経営力↑⇒研究力↑⇒大学経営力↑⇒・・・」という好循環を形成。 」と
ともありますが、同様な案も今回のアンケートで指摘されていました。
また、「「量の拡大」ではなく、「質の向上」が本質的な課題」ともあります。現在の日本のアカデミアの仕組みは非常に効率が悪い方式になっており、これを改善するのが本質的な課題であることも間違いない部分ではないでしょうか(「量の拡大」はそれはそれで議論があるとして)。
この資料では、運営費交付金について私立大学との比較もされています。(財政審の委員に私立大学の委員が多いことも多少は関係しているのかもしれませんが)運営費交付金についてここで指摘されていることについて反論するのであれば、何か新しい説得力のあるエビデンスやロジックが必要だと思います。それはたぶん困難なので、原則的にはこの流れは不可避であることを前提とする必要があるのでは、と自分としては感じます。
ということで、財務省・財政審議委員会はそれほど大きく外したことは主張されていないと思われますし、少なくともここで主張されているようなことは十分踏まえた上で議論をしていく必要があるのではないでしょうか。
ちょっと、具体的なのは見つからないですが、http://d.hatena.ne.jp/scicom/20070810
に、この本 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4478180431/sciencepolicy-22/
にいきさつが書いてあるということが記されてますね。
興味深い情報をありがとうございます。
>国会議員の加藤紘一さんが研究者とお話をする中で思いつかれた
これに関する資料はなにかございますでしょうか。
そうですね。競争的環境が続いてきたので、ここの議論でも「無能な教授は去れ」という声が大きいですが、制度設計としては去る人のことも考えなければ、壮大な内輪もめに終わってしまうと思います。研究コミュニティとしての大義を掲げることと同時に、様々な立場の方を考慮した設計が必要ですね。
「責任」ということを考える場合、適正の考慮を十分にせず博士課程に進学させてしまい、甘い審査で博士号を乱発し、院生の方々に十分な教育を行わず、単に無料の労働力として消費しがちであったアカデミア側のほうが責任の比重は高いと僕は思います。この点、欧州PIさんのご意見に賛成です。
あと、ポスドク一万人計画は、文科省が言い出したことではなく、国会議員の加藤紘一さんが研究者とお話をする中で思いつかれたことであったはずです(つまりマルセイ案件)。ですので、文科省の責任、ということを議論してもそれほど意味はないようにも感じます。
> このような分野ではポスドクを産業界にかなり供給できるはずですが、積極的にコミットされていますか?
この点もまさに欧州PIさんのご意見に全く同感です。ご指摘されている医学界の反応はひどいものであるとしか言いようがありません。ただ、これを「医学界」とするのは広く捉えすぎで、医師の方々を中心とした「人類遺伝学会」の中の一部の方々のことですね。おそらく、このガチ議論の母体の分生とか生化学会など基礎分野では個人向けゲノム解析の産業化にポジティブな意見も多いのでは、と思います。僕自身は、個人向けゲノム解析サービスの可能性(雇用創出も含めた可能性)を非常に高く感じており、2年前くらいから個人向けゲノム解析サービスを提供する企業のアドバイザーをしていて、微力ながらその発展のためにいろいろと意見を言っています。
個人向けゲノム解析サービスにかぎらず、生命科学にはいろいろな産業化のポテンシャルはあるはずで、そういうものをアカデミアが今以上に積極的に支援したりコミットしたりして、ポスドクの雇用先の創出を増やす努力をするという方向性は必要ではないか、と思います。日本のアカデミアにいる研究者の中には、産業に偏見を持っていたり、下に見たりする方々が少なからずいるような気もします。そういう偏見はだいぶ減っているようには感じますが、そういうことを一層減らしていくことも重要なのでは、と思います。
同じ情報を持っても立場が違えば受け取り方は変わってきますから、そういった立場の調整ができる仕組みも必要になるように思います
基盤的研究費とポジションを安定させるのが極めて重要とは思うのですが、それは国立大学の運営費交付金という従来型の仕組みではなく、個人ベースの公正性・透明性の高い競争を通じて実現させるべきなのでは、と考えます。研究はあくまでも個人、あるいは研究室単位で行うものである、という側面が強いので、大学・研究機関を競争単位の中心にしすぎないほうが良いというのが僕の意見です。「運営費交付金」に「めりはり」をつける、というような方法の競争ですと、スローガン作り合戦のような教育・研究以外の空虚な競争に消耗しがちになってしまうのではないでしょうか。
(米国の仕組みがすべて優れているわけではありませんが)米国のように私立大学が研究の主役で、間接経費を主な収入源とし、研究環境や待遇で争うことによって良い研究者の獲得競争をし、それぞれが特色を出していくような仕組みのほうが、運営費交付金中心の方式よりも優れているように思います。しかし、米国方式では、個人間の競争が激しすぎその弊害(不正の多発など)も出ており、それを日本にそのまま輸入するのはよくなく、そこで出ている案が、基盤的研究費とポジションを安定させる方式です。
文科省は、論文数・論文引用数などの増加や大学ランキングの向上はめざしたいと考えていると思います。エビデンスベースの施策、ということを重要視するようになっており、これらの数値指標は、文科省が考慮するKey Performance Indexにしっかり入っていたはずです。もちろんですが、同時に科学が産業的・経済的にも貢献することを目指していますが、それだけではないということです。予算の総額が増えないのは、これらの向上を目指さないからではなく、他の社会保障費など必須のものが顕著に増加してきて一方で、国全体の予算はそれほど増えていないからでしょう。
科学技術予算の増加を国民の方々とその代表としての議員さんたちに認めてもらうためには、他の社会保障費、公共事業、防衛などと比べて、それ以上に文教・科学振興分野への投資が重要であると考えていただく、ということになるかと思います。で、総額は、もちろん増えるに越したことはないし、それを増やしていただく努力を研究者コミュニティとしてしていくべき、とは思いますが、今のままの仕組みを維持しているのでは増やした分だけの効果は得られないだろう、というのが僕の意見です。
研究者コミュニティと文科省が協力して、限られた資源でより費用対効果の高い仕組みを作る努力を継続して行っていく必要があると思います。例えば、ある程度の競争性は維持しつつも安定的・長期的であるような基盤的研究費を導入したり、収入の増減はあるものの安定はしているポジションを導入したり、申請・評価などに費やされているムダな雑用を減らしたりすることによって、費用対効果は高くなるはずです。そういう努力を一方でしつつ、文教・科学振興分野の重要性を説得力のあるかたちで主張し、総額も増やしていただく努力をするというのがよいのでは、と思います。企業でも国でも、投資効率の良いところに資金を投入するのが普通でしょう(これは基礎研究の生産性という意味も含めてです)。現状のアカデミアは、論文生産でも人材育成でも成功しておらず、投資した見返りが今ひとつ感じられないと外部の方々には思われているのではないでしょうか。この低い投資効率の現状は、文科省だけでなく、アカデミア自体の責任も大きいと僕は思います。
仰るとおりですね。こうした場に、個人の意見ではなく、科学者のコンセンサスを持っていける代表者を出せるような仕組みが必要だと思います。科学者間のコンセンサスがないことはよく指摘されます(カナディアンマンさんも指摘されています)が、これはそれぞれの持つ情報に大きな格差があることが要因であり、同じ材料でもって議論をする際にはそれほど大きな意見の相違は生じないのではないかと思います。
質問に回答いただきありがとうございます。社会と研究者の間の目標の相違について理解が深まりました。研究者は科学的な成果が豊かであればそれは成功であると思考停止してしまいます。このギャップをどう埋めていくかが大切ですね。
尾身幸次氏の講演記録を読みました。科学技術基本法の考え方がすっきりと表現されていて、狙いがよく理解できました。研究者の考え方から遠く離れているかというと、必ずしもそうではないと思います。むしろこの方針を具体的な施策として落とし込むプロセスで、文科省と当時の有力研究者は失敗したのではないかと思いました。
・尾身氏がノーベル賞受賞者の発言として評価している「基礎研究というのは単なる真理の探究ではない。特許のかなりの部分に基礎研究が貢献している。もちろん、基礎研究だから、どういう成果が出るかは別として、結果として、基礎研究をしっかりと充実させていくことが産業の発展にプラスになるのだ」という考え方は研究者にも共有できるものであり、予算化しにくかった基礎研究を評価する流れができたことは大きな転換点であったことを改めて認識しました。
・総花では駄目だという認識は、基礎研究に関して言えば適切ではないように思いますが、これは研究者側が尾身氏に対して説明をしていく必要があったのではないかと思います。
・ここで述べられている「選択と集中」というのは国家としての重点領域の設定ということであり、現状のように研究機関や、研究室単位での予算の重点配分にまで拡大解釈されているのは端的に誤りではないかと思いました。どこかで目標のすり替えが起こったのだと思います。
国際的な競争とは、将来が不透明な中、世界の変化に迅速に対応できるような基礎的な研究力を蓄えておくことであり、そのインデックスの一つに論文数が位置づけられると考えています。大学院重点化の失敗は、大学の社会的意義や、そのあり方についての議論が共有されなかったことに原因があるように思いました。基礎研究への資金の投下を通じて、研究力のある人材育成(様々な分野で自らの研究力を活かせる人材)を行う必要があったのに、目先の論文数を競争することに終始してしまったということではないかと思いました。
その責任は研究者にもありますが、誤った方向に誘導する仕組みがあったこともまた大きな問題であったと思います。この点を真摯に反省し、ラストチャンスとして、大学、および基礎研究への支援を要請するという姿勢で取り組むことが大事ですね。あるいは、その程度の覚悟では社会から理解を得ることは難しいでしょうか。
「科学の成果」として文科省なり「財政当局」なりが本当に求めているものは何か、ということだと思います。先に述べたように金を突っ込み続ければとりあえずは論文数が増えることくらいは先方も認識しているでしょうから、それでも増やさないということは、本当に求めているものは論文数ではない、ということになります。
その後が続かない、というのは論文数というよりはそちらの「科学の成果」の意味が大きいかと思います。したがって、近藤先生の「その後が続いていた」というのもおそらくズレた認識でしょう。豊田先生の分析は大変興味深いとは思いますが、法人化にすべてを帰着させるのはさすがに乱暴すぎるように思います。減少した論文の分野や機関に関してもう少し分析が必要ではないでしょうか。
たとえば国際的な競争とはなんでしょうか。論文数が増えればそれは論文数の競争には勝てるでしょうが、求められているのはその競争なのでしょうか。おそらく違うでしょう。
科学技術基本法の立役者で科学技術立国を唱えた中心人物、尾身幸次氏への講演内容がありますが、どうみてもこれは基礎研究は産業的・経済的貢献に繋がるから支援しろ、という論理です。
http://jfn.josuikai.net/josuikai/21f/56/omi/main.html
つまり政治的には、産業的・経済的成果につながらなければ大学院重点化は失敗なのです。そして博士の雇用すら生み出せずに終わった重点化は財政当局には失敗と受け取られているでしょう。
つまり文科省はすでに一度大失敗しており、同じような論理ではもう財政当局には通用しない、ということなのだと思います。
財政審の委員はこのようなメンバーのようですが、結局議論が必要なのは文科省とではなくこちらの方々と、ではないですか
https://www.mof.go.jp/about_mof/councils/fiscal_system_council/soukai/member.htm
「政府負担研究費を対GDPで見たときに、他の国も長年変わらない比率である(=増やし負けているわけではない)のに、論文数が他の国々が上がっている中で日本だけがっつり下がっているのは使い方が悪い以外の何ものでもないのでは?というスタンスです。」
ということですが、たくさんあるグラフの中から
1-1-1や1-1-2は私企業の研究費を含むので、文科省が額を決めれるものとして政府負担研究費のグラフを使いました。
というのはどうなのでしょうか。失礼ながら説得力があるようにはあまり思えないです。これも失礼ながら
先生のおっしゃるように、「『予算は減らしても効率化したり配分を工夫すれば科学の成果があがりうる』というごまかし」にはとても賛成です。が、現状は、それとは逆の「予算が同じでも使い方がダメだと成果は下がる」を地でいっていると読み取れ、
という結論に都合がいいグラフを選んだ、と言われる可能性は無いのでしょうか? 使われているお金と成果の関係については例えば、
http://blog.goo.ne.jp/toyodang/e/4809396738dd0853d4f3688d04281171?fm=entry_awp
の様なものを僕は参照していました。数あるグラフの中から単純に一個を選んでいるのよりはもっといい解析だと思います。使い方の問題(設備にばっかり投資すると効果が少ないが、日本はそうなっている、とか、公的研究機関への集中投資がうまく回ってない、など)にも触れられています。
日本の科学予算が「増やし負けているかどうか」というところが既に問題になるとは思っていなかったのでちょっと驚いています(財務省がその様な論を展開しているのは知っていますが、あそこはそもそも、お金をださなくていい、とか、既に十分に出している、という結論しか立場上出さない(出せない)組織なのであまり相手にはしていませんでした)。上記の記事を読んでいただければ「使い方の是正が先」という考えは間違っていると理解して頂けると思います。
よろしくご検討ください。
国立大交付金、毎年1%削減…財政審が提言へ
http://www.yomiuri.co.jp/economy/20151022-OYT1T50155.html
ニュースからもネタを投げ込みます。国立大学の運営費交付金と自己収入を平成31年度までに同額にすることを目標としているようです(現状の3割が自己収入というのでは不十分ということです)。自己収入が多いと言うことは現在の社会からニーズがあるということを意味していますが、それは国立大学の本来の使命なのでしょうか?研究支援は将来の日本に対する投資なのでは?儲かるならば儲かるところを切り離して、起業する方が健全です。
産学連携の促進は、国費で明らかになった成果はパブリックドメインに属するという原則を曲げるものであり、場合によっては関連分野の健全な発展を阻害していることすらあります。「大学が企業から受け入れる共同研究開発費を5年で5割増やすよう求める」とありますが、仮にこれを大学側の努力に求めるということであれば、ますます近視眼的な研究や、研究不正が増加するのではないでしょうか。
純粋に削減であればもはや「選択と集中」ですらありませんが、こうした動きに対して文科省と研究者は協働して対抗していかないといけないと思います。
>大変失礼ながらピンポイント的に不十分な部分を突きたかっただけ、という印象をうけてしまいました。
そのような印象を与えてしまい、申し訳ありません。そのつもりはまったくありません。
1-1-1や1-1-2は私企業の研究費を含むので、文科省が額を決めれるものとして政府負担研究費のグラフを使いました。
政府負担研究費を対GDPで見たときに、他の国も長年変わらない比率である(=増やし負けているわけではない)のに、論文数が他の国々が上がっている中で日本だけがっつり下がっているのは使い方が悪い以外の何ものでもないのでは?というスタンスです。
中国に関してはボーナスステージの中国と落ち着き終わった今の日本を比べるのは難しいなぁという印象です。
先生のおっしゃるように、「『予算は減らしても効率化したり配分を工夫すれば科学の成果があがりうる』というごまかし」にはとても賛成です。が、現状は、それとは逆の「予算が同じでも使い方がダメだと成果は下がる」を地でいっていると読み取れ、それの是正が先だと思います。
ここでは匿名での投稿も可能です。忌憚のないご意見、歓迎ですので、ぜひガチ議論していただければと思います。
まず、最初に断っておきますけど、長い文章の一部を取り出し、文脈を無視して欠点をあげつらっても、あまり建設的な議論にはならないと思います。個々の文章ではなく、僕が述べている主張の当否自体にご意見を頂ければと思います。
それではお返事します
1 「中国以外が増やしている印象を受けません」ならどうなるのか?
以下に述べるように、これは何を見るかによってしまうとは思うのですが、仮に100歩ゆずって「中国以外増やしていない」としたら、僕の議論のどこかが変わるのですか? 中国以外には負けてもいいからお金は増やさないという決断をすべきだ、というご意見なのでしょうか? ここは基本的に議論のための議論をする場ではないと思うので、なるべくなら「中国以外は増やしていない」ということを事実として仮定した場合、どの様な結論を導きたいとお思いなのか、お聞かせいただけると幸いです。
2 「中国以外が増やしている印象を受けません」は事実か?
例えば、1-1-1「主要国の研究費の推移」を見ると確かに中国以外は増やしていないようにも見えます。ですが、1-1-2「主要国の研究費の推移」や1-2「主要国の研究費対国内総生産」の方を見ると2007年をピークに日本は下がっていて(他の国とは対照的に)その分をまったく取り戻せていないということがわかります。また、1-2を見ると解るようにヨーロッパはEUという値があり、こっちは明らかに上昇傾向です。日本との人口比やGDP比を考えると日本はEU全体と比べたほうがいいかもしれないですね。
いわゆる統計と言うものは処理の仕方でいろんな絵が描けてしまうので注意が必要です。ただ、どのグラフを見ても日本が(この10年弱ほどの間=ほぼ、日本の科学力の減衰が問題視されている期間)「減っている」あるいは「増やし負けている」のは事実なのではないでしょうか(ここで2-1-2IMF為替レート換算ではそうじゃない、とかいう突っ込みはご勘弁願います(笑))。
大変失礼ながらピンポイント的に不十分な部分を突きたかっただけ、という印象をうけてしまいました。もうちょっと建設的な議論をした方がいいように思います。僕を論破するのを目的にしても仕方ないと思います。
「他の国は科学技術政策に投下するお金を増やしているが」の部分ですが、科学技術要覧 平成26年版 (1) 研究費(下記PDF)
http://www.mext.go.jp/component/b_menu/other/__icsFiles/afieldfile/2014/09/26/1351776_03.pdf
の政府負担研究費の部分を見る限り、中国以外が増やしている印象を受けません。
そうですね。こういう会議にお出でになる方々が全体最適をまったく目指してこなかったことは本当に無責任だと思います。
まずは「国力の維持・発展には科学力の維持・発展が必要で、科学力の維持・発展のためにはお金が必要だ」は仮定しましょう。いろいろ各論的には問題あるでしょうけど、基本的にこれはいいことにします。以下、大げさですが、これを仮定1と呼びます。さて、仮定1を前提とした場合、おっしゃっるような「今の研究者側の状態では結局その後が続かない…とがわかったのだから、まずそこをなんとかしろ」、言い換えれば、「科学の成果である論文、あるいは、教育の成果である博士号取得者、が国力につがらないのは科学者の責任だからそこをまずなんとかしろ」という要請は妥当か、を考えます。またまた大げさですが、これを以下では「要請1」と呼びましょう。
僕は2重の意味で要請1は誤っていると思います。
1 それは科学者や大学の責任ではなかろう。
お金をつぎ込んでも、論文の数が増えない、あるいは、博士号取得者の数が増えない、となったら、それは確かに大学、あるいは、科学者の責任でしょう。しかし、「その後」が科学者や大学の責任だ、というのはやや飛躍していると思います。世界的にもそんなことを言っている国(もし、国民、ないしは、政府がそういう意見を持っているとすれば、ですが)はどこにも無いと思います。もちろん、各論をいうと、明らかに出口がない分野に騙して学生を呼び込んだり、質の低い大学院生に博士号を与えてしまったり、博士号取得者が研究者になれない場合の教育が想定されてない、など改善点はいろいろあるでしょう。ですが、いわゆるPD問題は、まずは、PDとして雇用されないと発生しない問題ですから、PD問題が発生しているという事態自体、(言葉は侮辱的ですが)「(研究者として)使い物になる博士号取得者を排出した」という事実を如実に物語っていると僕は思います。だから、お金はちゃんと(ある程度は)有効に使わえれたのであり、その後(博士号取得者が企業に行けない、あるいは、年長者がポストを占めていて若手が就職できない、など)がうまく行かないから、元のお金を絞ってしまうというのは間違っていると僕は考えます。まあ、細かいことをいうといろいろありでしょうけど、長くなるのでここまでにします。
2 科学者にそんな大事なことを決めさせせていいの?
百歩譲って(僕はそうは思いませんが)その後、つまり、論文や博士号取得者を排出した後、それを国力につなげるのが科学者の義務である、としましょう。それでも、お金を絞って論文が出なくする、あるいは、他国に比べて相対的につぎ込む予算の増加を抑えて、閣下的に順位を落とす、が仮定1の元で正しいこととは僕は思いません。仮定1の元では、それは結局、科学者や大学の怠慢のせいで国が滅びることになってしまいます。そんなことをしたら、結局、割を食うのは国民です。だから、「その後」が仮に科学者の責任だとしても、「その後、をなんとかするまで金は出さない」というのは間違っていると思います。それは最大限、科学者の立場を悪く見たとしても、国と科学者(や大学)とのチキンレースにしかなりません。この国の将来がそんなものに左右されていいはずはない、と僕は思います。
繰り返しとなりますが、以上の2点から、僕は要請1は間違っていると考えています。
ガチ議論の当日にも問題となりそうなコアな議論です。ほりうちさんの「しかし今の研究者側の状態では結局その後が続かないことがわかったのだから」という箇所をもう少し詳しく説明いただけますと有り難いです。
以下の豊田先生の記事のデータは別のメディアでも話題になっていたと記憶しますが、論文数の増大といわゆる科学の成果には相関があるので、常識的に考えれば論文数というアウトプットが減少している状況で我が国における将来の成果を期待することは難しいと思います。論文数が反映する科学の成果が「国力のごくごく小さな一面にしかすぎない」と考えている国は非常に少ないように見えます。田口先生の指摘は、投資を拡大せずに国際的な競争に勝ち抜くのは難しいということを文科省はもっと社会に対して主張すべきということではないかと思います。
http://blog.goo.ne.jp/toyodang/e/5d3d11c6983ad788103f992083f82b84
近藤先生の問題提起(「政府による大学改革はやらない方がましかもしれない」というお話し)は、「その後が続いていたのにどうして改革してしまったのだろう?」という問いかけではないかと思います。研究者が解消すべき問題に取り組むことと科学研究に対する支援を増大させることとは問題のレベルが違います。後者は研究者だけが考えていれば良いという問題ではないと思います。
先生の理解はわかりました。ただし生田さんがおっしゃりたいこと(かなり官僚語で婉曲になってはいますが)私としての理解は、資金を突っ込めば論文は増えるかもしれないが、ポスドク問題のような混乱を起こしてまで突っ込む必要は財政当局は感じていない。減らされたくない、増やして欲しいというのなら少なくとも研究者側の問題が解決したことを示せ、ということだと思います。実際に大学院重点化後、一時は論文は増えたのですから、金と人を突っ込めば論文が増えるくらいのことは官僚はわかっているでしょう。しかし今の研究者側の状態では結局その後が続かないことがわかったのだから、まずそこをなんとかしろということでしょう。
たしかに他人事口調にむっとなるやりとりですが、国策を動かしたければコンセンサスをつくるかエビデンスを出せ、ということは常識で考えればごくまっとうな話ではないかと思います。これに対して科学者側がコンセンサスはつくれない、エビデンスは出せない、ということならもう話は終わっていますよね。あとは政局任せか、国に頼らずになんとかするかしかありません。
僕は最初から科学の成果を得るためにお金が必要だ、ということと、国力を維持するには科学の成果が不可欠だ、とかしか言っていません。何と何をすり替えたのかよくわからないのですが。そもそも、ほりうちさんの最初のコメント
これがまったく明らかではないというのが生田氏の指摘だと思います
の「これ」は
政府が欲しがっている「国力」は科学に対する膨大な投資なしには維持できないのはかなり明らか
という僕の文章なのかと思ったのですが、違うのですか? また「明らかではないというのが生田氏の指摘」とは具体的に、生田さんの発言のどの部分をさしているのでしょうか? そもそも、生田さんは国力については何も言ってないと思います。なので、もし「これ」が上記文章自体をさすのであれば、生田さんの文章の中に「これが明らかでないという指摘」は含まれていようが無いように思います。
僕の理解では、現政府は、科学が国力の源泉であることについて異論はもっていないと思います。だから、「ノーベル賞をたくさん出す」とか「大学ランキングに入る大学を増やす」とか「国立大学の文系を減らす(というのは誤解だと言っているみたいですが)」とか言っているのだと僕は理解しています。
「論文数が国力のごくごく小さな一面でしかない」というのは現政府の理解とは異なっていると私は理解しています。むしろ、そこがなかったら何も始まらない、全ての基礎だ、というのが現政府の立場だと理解しています。
僕が問題にしているのは科学に投じるお金の総額を増やさなくても配分の仕方を工夫すれば科学の成果(それは数えられるものとしては論文の数とかになるのでしょうが)増やすことが可能だというのは無理なのではないか、ということです。
「国力」から「科学の成果」にすり替わりましたね。「科学の成果」を論文数とみるなら、それは予算を増やせば増える可能性が高いでしょう。しかし国力は論文数ではありません。百歩譲っても、国力のごくごく小さな一面にしか過ぎないでしょう。一時的に論文数を増やすために有為な若者を学術界で腐らせるよりは、他に投資したほうがマシというのが政治の判断ということでしょう。
福島の原発事故とこの問題を単純に比較することはできないと思います。私は、むしろ問題は、最近の国立競技場のデザイン、経費問題の背景と共通する部分が大きいと思います。その検証報告書では、こういう問題が指摘されています。
【プロジェクト・マネージャーの不在】
・多くの関係者間や関係組織間の役割分担、責任体制が不明確であったため、意思決定プロセスの透明性が確保されていなかった
【意思決定の歪み】
・大規模かつ複雑なプロジェクトに精通した専門家を発掘・配置しておらず、また、デザイン選定からプロジェクト推進までを一貫してチェックする専門性をもった組織を構築していなかった
【専門家の不足】
・検証の過程で行ったヒアリングの結果判明したことは、本プロジェクトに関わった多くの人が真摯に仕事に取り組んできたことである
・その一方で、プロジェクトを遂行するシステム全体が脆弱で適切な形となっていなかったために、プロジェクトが紆余曲折し、コストが当初の想定よりも大きくなったことにより、国民の支持を得られなくなり、白紙撤回の決定をされるに至ってしまった
これなどは、科学研究振興政策の問題と共通した背景を指摘しているのではないでしょうか。同様な問題が、文部科学省という同じ組織に存在していることを明確に示唆していると思います。
福島の原発事故の問題については、様々な分析がなされており、単純にそのように議論することはできないと思います。以前も話題になったように黒川清さんが中心となってまとめられた報告書の英文ではこのように議論されています。
「その根本的な原因は、日本文化に深く根づいた数々の慣習に見出すことができる。すなわち、私たちの条件反射的な従順さ、私たちの権威に疑念を抱くことへのためらい、私たちの「あらかじめ設定された通りに行うこと」へのこだわり、私たちの集団主義、そして私たちの島国根性。今回の事故に責任を負う立場に別の日本人が就いたとしても、結果は同じだったかもしれない」
科学技術振興の政策やその結果も、この文章の原因と共通しているのではないでしょうか。特に大切なのは、失敗を失敗と認めて、それを政策に反映するということだと思うのです。
それは事実誤認であると思います。日本の増やし方が足りないために科学の成果が落ちているのは多分、事実です。他の国に比べて増やし方が足りないです。
http://digital.asahi.com/articles/ASHB26HXDHB2UTIL058.html
にもまがりなりにも世界的に認められている大学ランキングをやっている母体も同じようなことを言っていることが触れられています。
“THE誌も日本の大学予算に触れ、「近隣のライバルと競うために、さらなる投資をするべきだ」と指摘した。”
他国と科学の成果を競う場合に、相対的に少ないお金で済むというのは(そういう方法があるというのは)、世界的にはむしろ異端的な考え方であると僕は理解しています。
僕は「科学に投じられる予算を増やせ」と言っているのではなく、「十分に増やせないなら科学の成果もあきらめるべき」だ、と言っているだけです。また、増やせば自動的に良くなるとも思いません。ただ、増やさないで済ます方法は多分、ない、と思います。
これがまったく明らかではないというのが生田氏の指摘だと思います。実際、近年日本の「国力」は科学技術への投資増とむしろ逆相関してませんか。
>政府が欲しがっている「国力」は科学に対する膨大な投資なしには維持できないのはかなり明らか
中川先生のご意見があまりにナイーブすぎて、文科省への政策立案にあまり影響を与えられな、いかと。
そもそも、これは文科省と言うより、アカデミア指導層に大きな問題があると思います。
そもそも、生物系の場合は兵隊欲しさに質を問わずに大学院生を取りまくった挙句、
まともなキャリア教育も行わず、ピペド養成に徹していたのが問題の根源でしょう。
あとは皆さん、アカデミア至上主義の価値観を支持していませんか?
そして、そこに付け込んで人を使っていませんか?
頑張れば報われるなんて幻想を植え込んでいませんか?
小生欧州の中堅大でPIをやっていますが、私の在籍する大学の学生だとacademiaに残れるのは10%程度だそうで、博士課程の学生の指導に関してはアカデミアには残れない事を念頭に置いてキャリアパスに関する教育をやるようにdepartment headからは言われています。そこから比べると、日本の教授陣の多くは学生に研究だけさせれば指導していると勘違いをしているのではないかと強く感じる次第です。
この世代に対する救済措置としては文科省にリクエスト出来る事は、教職の特別過程を作ってもらって、ヒトの流れを作る位ではないでしょうか?
もし、限られたバジェットの中で40前後を救済するならば、ご自分の研究費を削る覚悟がありますか?それが無いのならば、彼らを公的な研究資金の枠組みで救済するのではなく、いかに少ない資金で他に転身してもらう事を真剣に考えるべきかと。
例えばNGS業界などは、今の世の中の流れ的に色々な職種を作れるチャンスがあるはずなのに以下のような視野狭窄の医学界の反応とか。
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO86714970T10C15A5000000
このような分野ではポスドクを産業界にかなり供給できるはずですが、積極的にコミットされていますか?
小生も卓越の制度設計の為に欧州での具体例に関するレクなども頼まれていたりして、文科省は限られたバジェットの中でかなり努力をされていると思います。これまで院生にまともなキャリア教育を行ってこなかった我々、ポジションが無いと言いつつ、アクティビティの落ちた60代やら定年後にいつまでも特任教授で残っている人たちに退場を促せない大学執行部などのアカデミア側でもやれる事はたくさんあるのではないかと思います。
この問題は基本的に「他の国は科学技術政策に投下するお金を増やしているが、日本は増やし負けているので科学の成果は先細りにならざるを得ず、それは長い意味では科学技術立国という方針の放棄なので日本が亡びる道なのですが財源が無いので他の選択肢はできていません」と政府が国民にはっきりいえるかどうかだと思うのですが。先の民主党政権の様に「無駄を省けば予算が減っても成果が上がる」というような幻想を、科学に対しても現政権は振りまくから罪が重いです。国民に事実をはっきり提示してどこに予算を投下するのか政策的な争点として選挙で意思決定してもらう必要があると思います。なにしろ、あの世知辛い中国が科学に膨大なお金を投じているのです。そのことだけとってみても政府が欲しがっている「国力」は科学に対する膨大な投資なしには維持できないのはかなり明らかだと思います。「予算は減らしても効率化したり配分を工夫すれば科学の成果があがりうる」というごまかしを国民に言うのをやめてもらうだけでも状態はかなり変わると思います(もちろん、無駄は無くすべきですが、それで必要な予算が足りるわけもありません)。若年人口と大学に投じる予算を関連付けて考えている時点でもう負けです(例えば、留学生を呼び込めればいい話でしょう?そこは)。
そのエビデンスのないリーダーシップを発揮した結果が原発事故でありもんじゅの失敗なのですがそれは…
補足いただき、たいへんありがとうございます。
すでに別スレッドで出ていたとのことで、当方の投稿内容はその重複になってしまって失礼いたしました。
(コメント投稿前に論文タイトルでサイト内検索しても見つけられなかったもので)
日本国内の研究者・研究費を対象にした同様の調査・論文がないものかと探していたところ、東京大学の馬場先生・柴山先生が下記の論文を発表されていたことを知りました。
(Shibayama S and Baba Y, 2015, 当コメント末参照)
既出の海外事例についての調査・論文とはスコープも手法も異なるものではあると思いますが、
・過度のリソースの集中は低インパクトなパブリケーションに繋がる
・人的流動性の低さは低インパクトなパブリケーションに繋がる
という指摘がなされています。
Research Policy. 2015 May;44(4):936-950
Impact-oriented science policies and scientific publication practices: The case of life sciences in Japan
Shibayama S, Baba Y.
http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0048733315000141
「生田:。。様々な主張をしていくためには、昨今は特にエビデンスベースが求められており、」
私は、このことを崩せばよいのではと思うのです。フロントランナーとしてイノベーションを生み出していくことが求められている日本の国のあり方として、これを崩せないことが、最大の構造的な問題であると、私は思うのです。これは、政治、施策に関わる公務員(含む、文科省と財務省の関係)、科学者、市民などのあり方に関わる問題です。
施策や運営に、客観的なエビデンスとか、数字とか、そういうのが必要になるのは、結局、「責任」を明確に取るリーダーシップとそれを評価するシステムがないからだと思うのです。ここのあり方を変えれば、よいのだと思います。まさに「「ゲームチェンジ」を興す新たな価値創造」が求められているフロントランナーには、モデルはありません。つまり、これまでの経験や歴史はエビデンスとしては使用できないということであると思います。自らがモデルになるのです。主観的な施策をやればよいのだと思います。失敗すれば、失敗と認めて、それを政策に生かすことも大切です。
文科省というのは、大学改革においては、学長のリーダーシップなどを強調しているのに、文部省そのものが「責任」のあるリーダーシップを発揮していない、あるいはできないという矛盾した状態にあるのではないでしょうか。
おそらく、中国のような国家体制ですと、(腐敗官僚の存在など含めて)エビデンスとは無関係に施策が容易に行えるので、科学研究の振興には有利なのだと思います(社会全体としての大きな弊害もありますが。)。
無責任と言えばそうかもしれませんが、こちらをみればわかるようにその多くにアカデミア自身が加担しています。これをスルーするのもまた無責任。
http://megalodon.jp/2015-0725-1145-39/mainichi.jp/journalism/listening/news/20150724org00m070013000c.html
>10年ほど前、政府の総合科学技術会議の議員を務め、任期制や成果主義などの競争原理を導入し、大学の運営費交付金を減らして競争的研究資金を増やすよう主張した。
研究者コミュ二ティで、とおっしゃいますが、人事権やアカハラパワハラの問題があり、現実的には下の者が上の者と対等に議論できるような状況ではないので、結局本当のガチ議論などいまの研究者コミュニティでは不可能かと。
いきあたりばったりに、「財政当局の視点からすると」なんて、もっともらしい言い訳をしているだけのように思えます。「ゆとり世代」への投資はどうだったのですか?それ以前の第2次ベビーブーム世代は?第2次ベビーブーム世代の子にあたる世代は?各世代への投資が公平となるようになんて考え方で、各世代への教育政策、科学技術政策に関する支出をこれまで決めてきたというのかい?片腹痛いわ。
「財政当局の視点からすると、その年齢層の研究者に対して、大学院重点化を通じて高額の投資をしたという解釈になっており。」といいますが、各世代への公平性を原則として財政支出を決めたことは科学技術政策ばかりではなく、いかなる政策においてもないのではないでしょうか?生田氏の個人的な意見ではなく、政府や財務省をはじめとする全省庁がこのような原則をもって財政支出をおこなっているのでしょうか?
生田氏の答えがあまりにも他人事で無責任で現場もなにも理解しておらず開いた口がふさがりませんが、そうとばかりも言っていられないので反論を。
>研究費が少ない、大学の運営費が減っているのが元凶、と言う意見が多数ありますが、増やすことは可能でしょうか?
生田:若年層の人口(20歳前後の人口はピークの半分くらいしかない)の減少と国の厳しい財政状況を考えれば、単に増額するのは無理だと思います
競争的資金に集中的に配分されている分を回せばできますよね?
>近藤:支援する分野が、応用研究に偏り過ぎである、という意見も多かったです。生田:文科省としては、基礎の研究が重要であることは認識しており、必要以上に応用研究に集中しようという意図は有りません。
意図があるかどうかが重要なのではなく、現に「応用研究に偏りすぎである」と言われていることが重要なのではないですか?意図などという一文にもならないものを言い訳に使わないでいただきたい。
>近藤:競争的な環境が行き過ぎているため、研究者と言う職種自体が敬遠されているという意見も有ります。生田:競争環境もその通りかもしれませんが、そもそもアカデミアの場における研究者としてのキャリアパスの具体的なイメージが出来ない、身近にモデル像がいないことが、研究者の職種が敬遠されている原因ではないでしょうか。
「アカデミアの場を知れば知るほど借金して学費を払い続けてもポスドクとして使い倒されたあげくに将来がなくなるか、常勤になって安い給料で省庁の対応や「改革」に追われて研究も教育も十分出来ず土日祝日関係なく働かされるかどちらかしかないことがわかるから」なのでは?
>近藤:20年前に大学院の重点化を進めたことで、現在40歳前後のPDがたくさんおり、非常に厳しい就職難になっています。この年齢層に対する何らかのケアは可能でしょうか?生田:難しいと思います。財政当局の視点からすると、その年齢層の研究者に対して、大学院重点化を通じて高額の投資をしたという解釈になっており、その人達をケアするための別途の予算措置は理解を得られないのではないでしょうか。本来であれば、産業界が、その人材を吸収するはずだったのですが、産業界と大学とのミスコミュニケーション、さらには90年代からの不況がそれを不可能にしたのではないでしょうか?
文科省が長年にわたって続けた政策の失敗を産業界や大学のせいにしないでください。国が落とし前を付けるのは当然です。「産業界と大学とのミスコミュニケーション、さらには90年代からの不況」はおおむね国の政策の失敗によるものですよね?どうみても。他人事にもほどがあります。
>近藤:忙しすぎて考える時間が無い、と言うのも多くの研究者の感じていることです。運営費交付金が減っているので、文科省から何らかのプロジェクトが提示されると、それを獲得するために全力を尽くさざるを得ません。その過程で、現役研究者がどのくらい疲弊するかを考えたことが有るでしょうか?生田:現場の研究者が研究活動に割ける時間が減っているという話は良く聞きます。本来的には研究者を支援する部局が有効に機能していれば、現場の研究者が疲弊することはないはずなのですが、特に日本の場合は研究を支援する者に対する理解が進んでおらず、キャリアパスとして構築されていないことも原因ではないかと感じています。
「良く聞きます」とかいう他人事のセリフを、ご自分たちがその根本的な原因であることが指摘されている言葉に対してよく言えたものです。もともと研究支援職はわりと大学にいたのに、運営費交付金を減らすことで彼らを非正規雇用にし、さらにそれすら雇えない状況にしたのはどこですか?きちんと安定的に研究支援職を雇えるように予算を回すのが文科省のお仕事ではないのですか。
同様の指摘は他にもあるようです。別スレでコピペしたのですが、再掲しておきます。
アメリカでの事例ですのでそのまま比較はできないと思いますが、年間数億円というレベルでの投資は効率が悪い、ということになるかと思います。
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NIH/NIGMSのDirectorであるJon Lorschが講演したのですが、統計をきちんと取ると、研究費あたりのインパクトは、$250,000–300,000あたりで頭打ちになって、$750,000を過ぎるとむしろ下がってくるとのことです。
http://www.molbiolcell.org/content/26/9/1578.full.pdf+html
これを受けて、NIH/NIGMSでは、グラント配分の方法を変革する(ためのトライア
ルを行う)と言っていました。
また、同じような解析は色々やられている様です。
http://datahound.scientopia.org/2015/01/30/estimated-publication-outcomes-as-a-function-of-number-of-r01-grants/
http://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0106474
http://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0065263
あと、この部分、
「近藤:20年前に大学院の重点化を進めたことで、現在40歳前後のPDがたくさんおり、非常に厳しい就職難になっています。この年齢層に対する何らかのケアは可能でしょうか?生田:難しいと思います。財政当局の視点からすると、その年齢層の研究者に対して、大学院重点化を通じて高額の投資をしたという解釈になっており、その人達をケアするための別途の予算措置は理解を得られないのではないでしょうか。」
あまりにもひどくないですか?これ。二階に上げて梯子を外すという典型ではないですか。重点的に投資したのは当時の大学院生を使い放題だった世代の研究活動に対してであって、当時の大学院生が恩恵を受けたわけではないじゃないですか。確かに、定員が増えてなければ大学院に入学できなかったかもしれないという意味では、僕らも恩恵を受けたのかもしれません。予算措置はともかく、任期がきたらポイというのだけは勘弁して欲しい。慎ましくでも良いから研究を続けたい。そういう我々の世代に対して、「大学院重点化を通じて高額の投資をした」というのはさすがにちょっとひどすぎます。
研究者コミュニティで十分に議論し揉んで洗練された案を、その代表として提案・相談しにいくのであれば、それはむしろより活発に行うべきだと思います。つまりロビー活動自体は何ら問題はなくむしろもっと行うべきだと思います。問題があるとすれば、ロビー活動の前に研究者コミュニティがやっておくべきことをやっていないという部分かと。
あと、文科省というよりも国民の代表としての議員さんたちに対してのロビー活動を中心にするのが本道なのでは。
「少数の大型研究費 vs 多数の小型研究費」問題についてのコメントです。
カナダの研究者・研究費を対象とした調査(Fortin JM and Currie DJ, 2013, 当コメント末参照)では、
・研究者単位で見た場合、グラント受給額が2倍になっても、研究のインパクト(論文数、論文引用数など)は2倍にはならない(2倍を下回る)
(研究者の単位では、研究のインパクトはグラント投下量に対してスケールしない)
・よって、研究コミュニティ全体の研究の総インパクトは、できるだけ幅広く研究費を分配した時に最大化される、と示唆される
と報告されています。
PLoS One. 2013 Jun 19;8(6):e65263.
Big Science vs. Little Science: How Scientific Impact Scales with Funding.
Fortin JM, Currie DJ.
http://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0065263
賛否あると思いますが、「ロビー研究者」について皆さんがどうお考えなのか興味があります。
CRDSはルートの一つにすぎないですので。他に直接文科省に説明・相談をしにいく、というのがかなり有効な方法としてあります。
それは、別ルートですね。
国家主導、トップダウン型の超大型プロジェクトは、すでに企業や海外でブームになったものに対して後追いで予算をつけている感があるのですがいかがでしょうか。たとえば直近だと、AIやビッグデータに注目が集まっていますし、それが将来的に大事なのはわかりますが、すでにGoogleが一歩も二歩も先を行っている現状、国家プロジェクトとして「今」取り組むべき課題なのかというと、ちょっと疑問が残ります。
「広い見識を持つと思われる複数の研究者や企業人などの有識者へのヒアリングなどを通じて決めています。」
というところが、一番問題なのではないかと。過去の大型プロジェクト、ことごとくすでに競争の火蓋が切られている分野に投資しているという印象が拭えません。一歩遅れて流行しだした分野に投資するために、「一番」にはなれないし、世界標準にもならない。言い方を変えれば企業が飛びつきそうなネタは企業に任せておけば良いわけですし、国がそれを育てることができるというのはちょっと違うような気がします。
トップダウン型の国家主導の大型プロジェクトは、リソース型、あるいはコミュニティーのインフラ整備型の研究に絞るべきで、基礎研究や技術開発とは本質的に相容れない、というのが個人的な意見です。であるならばいまよりもその手の予算は少なくするべきで、その分を大学等の基盤的な経費に還元することで、科学技術の基礎体力の向上は望めないでしょうか。
じゃあなんでマーモセットやねん!!!
ということは、近藤先生の「トップダウンのプロジェクトに関して、分野の選び方、研究者の選考が不透明であるという意見も多かったです」という点については、ある程度はJSTの取り組みで説明可能ということでしょうか?
もしそうなら、逆になんでアンケートでそんな意見が出てきたのかについて、興味あります
JSTにはCRDSというのがあって、大型のプロジェクトのトピックになりそうなものについて関係者にかなり幅広くヒアリングを行うなどの各種調査をされています。
農水省の大型予算は技術会議の意見を受けて、担当の方がたが、各地方に広くヒアリングに行って、次の年度の公募課題を決めるという感じだったと思いますけど、文科省管轄の場合、分野が広すぎて難しいかもしれませんけど、JSTサテライトのようなものを使って何かできないんですかね?