2015.11.29 トピックス
ガチ議論2015 本番情報
おまたせしました!「ガチ議論2015」の本番詳細です!
【企画紹介ビデオ】
【企画の趣旨】
日頃、「文科省のおかげで大学(研究所)がめちゃくちゃだ!」とお怒りの皆さん、お待たせしました。ガチ議論が2年ぶりに帰ってまいります。今回は、文科省対話型政策形成室のご協力のもと準備を進めております。ガチ議論の場での要望は、間違いなくトップに届きます。ですが、届けば叶うわけではありません。単に「もっと予算をよこせ」と叫ぶだけでは何も起こらない。我々科学者は「知的な」集団であるはずです。納得せざるを得ない論理とデータで説得しましょう。ラスボスを味方に引きずり込みましょう。それができるかどうかで、明日の生命科学の環境は大きく変わるはずです。 今年のテーマについては、現在検討を進めていますが、それをするにも皆さんのご協力が必要です。単なる非難のやりあいにならないように、研究者サイドからの問題点を整理し、それを文科省側に振り、事前に論点を煮詰めることで、当日の議論を有意義なものにしたいと考えます。研究者側にも立場(学生、PD、PI、大御所)の違いにより意見が大きく異なると思われますが、それも、一切合財飲み込んで、形式的でないガチな議論をしたいと考えます。
フライヤー(高解像度版; jpg)のダウンロードはこちらから
【主催】
BMB2015(第38回日本分子生物学会年会・第88回日本生化学会大会合同大会)
【開催日時】
2015年12月3日(木)18:45〜20:45
【会場】
神戸ポートアイランド 神戸国際会議場メインホール
【登壇者】順不同・敬称略
・政府サイドのパネリスト
- 生田 知子(文科省 大臣官房政策課 対話型政策形成室・室長)
- 斉藤 卓也(文科省 基礎研究振興課 基礎研究推進室・室長)
・研究者サイドのパネリスト
- 荒木 弘之(分子生物学会・理事長;遺伝研・教授)
- 水島 昇(生化学会・会長;東大・教授)
- 遠藤 斗志也(「ガチ議論」委員;BMB2015・生化学会会頭;京都産業大・教授)
- 八木 康史 (阪大・副学長, 研究担当理事)
・話題提供・研究者の意見を代表し紹介(兼パネリスト)
- 宮川 剛(「ガチ議論」委員;藤田保健衛生大・教授)
・司会・解説
- 近藤 滋(「ガチ議論」委員;阪大・教授)
- 小山田 和仁(「ガチ議論」委員;政策研究大学院大・専門職)
【スタッフ】
- 田中 智之( 「ガチ議論」委員;岡山大・教授)
- 小清水 久嗣( 「ガチ議論」委員;藤田保健衛生大・助教)
- 神田 元紀( 「ガチ議論」委員;理研・研究員)
- 加納 愛(カクタス・コミュニケーションズ)
【協力】
サイエンストークス/カクタス・コミュニケーションズ
【Web配信】
配信終了しました。
【質問受付】
質問受付は終了しました。
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[...] ・第38回日本分子生物学会シンポジウム“第2回 日本の科学を考えるガチ議論” H27年12月 [...]
チラ見して諦めました。長い。
URLだけじゃなくて3行でまとめてくれるとわかりやすいのに…
岡山大学と言えば身分詐称して世論工作をしていた問題がありましたね。
こちらも要注意です。
http://togetter.com/li/274738
岡山大学の件、産学癒着、捏造、パワハラ、学長トップダウン問題とあらゆる観点から現代アカデミアの問題の凝縮のようになっています。ぜひガチ議論をしてください。
http://www.news-postseven.com/archives/20140210_240621.html
話がわかってないですねぇ。ぽととさんはcuriosity-drivenであることは評価の対象にならないという話を延々とされていたんですが。意思がどうあれイノベーションの可能性を広げることを示せるかどうかということなんですが。
その立場を確認したかったので安心しました。
特定の動機だけが優遇されるべきではないと言うのは同意です。
重要なのはcuriosity-driven researchがcuriosity-driven researchとして評価されて予算を獲得出来ることだと思います。
下手に実用重視の予算配分になると、科学的に優れた研究になるはずだった萌芽が潰されたり、研究者の側でも科学的思考が制限されたり、予算を獲得するために応用可能性について針小棒大に誇張したり、SFと変わらない絵空事や虚偽さえも跋扈する危険性がありますから。
研究がcuriosity-drivenかどうかという研究者の動機は公的支出の是非とは関係なく、結果としてイノベーションの可能性を広げているという世俗社会における社会的機能が公的支出を正当化する根拠になる、というのが私の立場です。だから、「curiosity-drivenだから国はお金を出すべきだ」とか逆に「イノベーションに貢献する意思がなければ公的支出を認めない」というような内面の動機で是非を評価する主張には反対です。
話は少し逸れますが
議論を効率よくするために自分の立場を明確にしたいと思います。これまで、このような問題について考えることが無かったので、ここの議論で自分が重要だと
訴えてきたものが一般にどのような言葉で表現されるのか分かりませんでした。しかし、今回少し調べてみて”curiosity-
based/curiosity-driven research”という用語が指すものだと気付きましたので、今後はこの言葉を使いたいと思います。
未
だによく分からないのが、ぽととさんの使う「イノベーション」の意味なのですが、一般的にはcuriosity-driven
researchの成果が経済的な意味でのinovationの基礎になることも少なからずあるわけで、ぽととさんの「イノベーション」が一般的な意味のものを指すとすれば
curiosity-driven research、つまり私が重要だと訴えるものを否定する理由は無いわけです。
にも関わらず、curiosity-driven researchの重要性を訴えると、ぽととさん的には「精神世界が云々」と否定的なことになるようなのですが、この辺の定義の齟齬・誤解が解消されれば無駄な議論も回避できると思われます。
平成28年度予算政府案が公開されています。(財務省HPからご覧ください)
国立大学に関する部分は、運営費交付金が減額されて使途限定の補助金で置き換えられるという相変わらずの傾向なのですが、今回新しく示された考え方として、平成29年度以降に運営費交付金の減額分を財源として新たな補助金を設立する、というものがあります。
これが何を意味しているかというと、運営費交付金と補助金は独立に査定される別個の予算ではなく、国立大学への公的支出という総枠がまずあって、その中で運営費交付金と補助金の比率をどうするべきか、という枠組で財務省・文科省は議論を行っていることを示しています。そしてその枠組の中で、交付金を補助金に置き換えるべき、という方針が示されているのです。
財務省・文科省の予算作成に関する枠組が明確に示された以上、運営費交付金と補助金の比率に関する研究者側の今後の反論は、この議論の枠組に対応したものであるべきと考えます。
> 「最大多数の最大幸福」と言う他人の言葉を抜き出したもので表現されても、漠然とし過ぎています。
漠然としているのは当たり前です。だって、社会には色々な価値観の人々がいて、それぞれに何を幸福と思うのかが違うのですから。そして、個々人の価値観は公権力によって規定されるべきではない、というのが私の立場です。
> 例えば、二章だけ見ても、6-7ページ目・第二章の冒頭ですが、4人の過去のお偉いさんの発言を引用してますが、いずれも「見返りが無い故に誰も興味を持たない、或いは、直ぐには応用が効かない若しくは発見者への見返りが少なくて民間が金を出したがらない基礎研究などは政府が支援しなくてはいけない。する義務がある」という内容です。
「社会の不特定多数にメリットがあるけれどもコストを負担した人に直接の見返りがない」ということが、正の外部経済性(公共性)の定義みたいなものです。そしてこのメリットの有無が公的支出の是非を決める一つの基準となる、という命題が、私が以前提示したことです。
ではどのようなメリットが社会にあるのか、をまとめたものがFig.23になるのですが、ここに挙げられているメリット5点は、結局は世俗的なものです。YKTさんが主張されていたような精神的なメリットは公的支出を正当化するべき根拠にはなっていません。
> 9ページ目およびFig.9では、経済的影響がある応用科学が重視されるようになる一方で、”curiosity-driven research”, basic researchへの公金からの出資も減ってないと言うことを述べており、”pure science”と”applied science”の区別や「イノベーション」を特段重視してないように思えます。
Conclusionの2段落目はどう読まれましたか?
「基礎研究」→「応用研究」というLinear Modelではなく、新結合という複雑な過程を経て基礎研究は社会にメリットを与えていることに留意する必要があるから、直接の応用が見えていない基礎研究も重視する必要がある、というように私は読んだのですが。
> 意外だったのは、Fig.14で日本は政府のR&Dへの支出が比較的少ない一方で、Business & Third sectorからの出資が各国中飛び抜けて多くて政府支出の5倍近くあること。
これは全然意外ではなく、ここ数年指摘されてきたことです。この事実は、日本の研究開発が「知の探索」よりも「知の深化」に重きを置きすぎていたことを示していて、公的支出では「知の探究」に比重を置くべき根拠になります。
> レポート後半では特に興味深かったのは、Fig.38ですね。”Even
if it brings no immediate benefits, scientific research which advances
knowledge should be funded by the Government”に同意するかどうかと言う質問に、8割近い人達が肯定的に答えていて、”Government funding for science should be cut because the money can be better spent elsewhere”については66%の人達が否定的に答えている点でしょうか。
ここは質問の立て方が上手いところで、”immediate”という形容詞が入っているところがポイントです。「Fig.23にあるような社会に対するメリットが最終的に得られないとしても」という質問ならば、回答は逆転するのではないでしょうか。
> 科学予算の話になると必ず「国民は納得しない」と言う言葉が何の根拠も無しに引っ張りだされますが、日本で同様の調査をやったらどうなるでしょうか?
> 欧米の他の調査でも同様の結果だったということですが、日本は違う結果になるのでしょうかね。
私の「世俗主義」に関するコメントを読んで頂けましたでしょうか。例え国民の過半数が賛成したとしても、ある特定の精神的価値観を国民全体に強制することは、少数派の「信条の自由」を侵害する民主主義の暴走であって行われるべきではない、というのが私の主張です。
「最大多数の最大幸福」と言う他人の言葉を抜き出したもので表現されても、漠然とし過ぎています。ぽととさんが実際に具体的には何を主張したいのか明記してくれると議論はよりスムーズになるでしょう。
未だに、ぽととさんの立場が理解出来ませんが、少なくともこれまでのレスの内容に照らせば、個人的には件のUCLのリポートの内容から受ける印象は、ぽととさんのこれまでの主張とは全く別なものに感じられます。
例えば、二章だけ見ても、6-7ページ目・第二章の冒頭ですが、4人の過去のお偉いさんの発言を引用してますが、いずれも「見返りが無い故に誰も興味を持たない、或いは、直ぐには応用が効かない若しくは発見者への見返りが少なくて民間が金を出したがらない基礎研究などは政府が支援しなくてはいけない。する義務がある」という内容です。
9ページ目およびFig.9では、経済的影響がある応用科学が重視されるようになる一方で、”curiosity-driven research”, basic researchへの公金からの出資も減ってないと言うことを述べており、”pure science”と”applied science”の区別や「イノベーション」を特段重視してないように思えます。10ページ目・Fig.11-12は経済状態の悪化に伴って他の分野の予算が20%近く減らされる中でも科学・研究分野の予算は維持されていることに関するものです。以外だったのは、Fig.14で日本は政府のR&Dへの支出が比較的少ない一方で、Business & Third sectorからの出資が各国中飛び抜けて多くて政府支出の5倍近くあること。
レポート後半では特に興味深かったのは、Fig.38ですね。”Even
if it brings no immediate benefits, scientific research which advances
knowledge should be funded by the Government”に同意するかどうかと言う質問に、8割近い人達が肯定的に答えていて、”Government funding for science should be cut because the money can be better spent elsewhere”については66%の人達が否定的に答えている点でしょうか。
科学予算の話になると必ず「国民は納得しない」と言う言葉が何の根拠も無しに引っ張りだされますが、日本で同様の調査をやったらどうなるでしょうか?
欧米の他の調査でも同様の結果だったということですが、日本は違う結果になるのでしょうかね。
研究室が密室で教授に権力が集中しすぎる事に問題がある。せめて株式会社なみの監査システムが必要でないか。
コミュニティが我々も含めた科学コミュニティを指すのであればやるべきことは簡単です。徹底的に怒ることです。山梨大はとんでもないところだ、と言い続けるところからはじめましょうよ。
ざっと読ませて頂きました。
論調としては、「科学は世俗的な意味における最大多数の最大幸福に貢献する正の外部経済性を持っているために公的支出に値する」という論理構成の枠組のなかで議論が行われているように読めました。読み飛ばしがあったかもしれないので、この範囲を超えた議論があったのであればご指摘ください。そしてこの枠組こそが、田中先生との議論で最初に提示した、「経済学的には、公的支出の是非の基準となるのは正の外部経済性(公共性)の有無です。」という命題なのです。また、正の外部経済性の中身に関しても、「イノベーションの基盤となる知の多様性を拡張する知の探索」で大体カバーできているのではないかと思います(こちらはあくまでも「大体」です)。
すみません、リンクを貼るのを忘れました。
ttps://www.ucl.ac.uk/public-policy/index_right/edit/events/Why-fund-research/Graeme_Reid_Report
念のため書いておきますが、冒頭のhを削ってるので、URLをコピペしてhを補ってください
直近の’ぽととさんのレスへの返答とは少し違いますが(まあ、でも過去のぽととさんの質問の答えにも一部はなってるかも)、University College Londonからの面白いレポートを見つけたので、是非ご参照ください。
個人的に、最初の1-2章と最後の6-8章の記述は特に興味深いものでした。
意見など聞かせてもらえればここでの議論もより有意義になると思います。
ここで問題になるのが、宗教戦争後の近代市民社会における公権力のあり方なのです。社会には色々な価値観を持つ人がいます。それぞれの人の価値観自体は、YKTさんが主張されるように客観的エビデンスがあるものではありません。「自然科学の研究を推進することは人類の責任である」という価値観もあれば、「地上に神の国を樹立することは人類の責任である」という価値観もあります。そして、公権力がある一つの価値観に肩入れすれば収拾が取れない惨事になってしまいます。そこで近代市民社会が到達した公権力行使に対する原則が以下のようなものなのです。
まず、基本的人権は守られなければなりません。基本的人権には当然、個人の信条の自由が含まれます。信条の自由を公権力から守るため、価値観は精神社会のものと世俗的なものに分離します。そして精神世界の価値観に関しては、公権力はノータッチとします。これが世俗主義です。世俗社会における公権力行使の原則は功利主義(最大多数の最大幸福)に基づきます。そして、何が最大幸福なのかを決める手続きとして、民主主義・多数決を採用します。私の主観的意見では、優先順位はこの順(基本的人権(含 信条の自由)>世俗主義>功利主義>民主主義)ですが、この点に関しては人によって意見が分かれるでしょう。また、以上はあくまでも原則であり、実際の政治は必ずしもこの原則に全て従っているわけではありません。しかし、自然科学者が国際社会で名誉ある地位を占めるためには、以上の原則に正面から挑戦することは避けるべきである、というのが私の意見です。
YKTさんが考える自然科学の価値は精神世界に属するものであり、公権力がこれに加担することは世俗主義の原則に反します。また、「経済学的には、公的支出の是非の基準となるのは正の外部経済性(公共性)の有無です。」というのは功利主義の帰結です。世俗主義、功利主義を放棄するのであれば、これに代わる社会運営の原理が示されなければなりません。
勿論、世俗主義は国家の形態の一つにすぎず、政府が特定の精神的価値観に従う「原理主義」という統治形態もあります。恐らくYKTさんが理想とされる国家像は、自然科学を至高の価値とする原理主義なのでしょう。それならば世俗政権を倒して原理主義政権を樹立するしかありません。そして、「信条の自由」が守られる世俗主義政権の下で暮らすことが私の希望です。
ところで、このようなことを書くのは子供の喧嘩みたいで好きではないのですが、
> 求めているのは、自然科学が人類普遍の価値であることに対する客観的エビデンスではなく、近代市民社会の公権力行使の場において自然科学が人類普遍の価値として見做される地位にあるかどうかについての客観的論証です。
の部分はお読み頂けたのでしょうか。基本的人権がこの地位にあることの客観的エビデンスとしては、憲法をはじめとする法体系を挙げることができます。自然科学はいかがでしょうか?また、私が受益者負担の原則で高等教育に対する公的支出を否定する主張をしたというエビデンスもお示しいただいておりません。
「客観的エヴィデンス」を挙げられてないようですが、結局、人命や基本的人権と言うものも、「大事だから大事なんだ」という主張の上に成り立っているということで宜しいでしょうか?
まあ、当然といえば当然ですが。日本社会を含めた現代社会には宗教国家での絶対神のような価値・善悪の絶対的基準が無いのだから、全ての価値観は相対的なものになって当たり前です。これらは、「集団(ある国・地域を構成する民衆)が何を優先させるか」という「集団の主観的都合」で決まる性質のものであり、人命や人権も集団の主観的都合では幾らでも制限される。
客観的エヴィデンスなどというもの無しに価値が認められるものもある、と言う認識を共有してることを改めて確認しておきたかっただけです。
私も、科学の発展と教育の普遍的価値は人命や基本的人権に優先するとは思いません。優先順位的にはそれらの下にあるべき、と言う主観的価値観に同意します。
しかし、それはぽととさんが最初の方のレスで言った
「経済学的には、公的支出の是非の基準となるのは正の外部経済性(公共性)の有無です。」
と言うもので割りきって良い性質のものであることを意味するものではありません。経済は絶対的価値ではない。「公共性」は経済だけでは測れないと思いますが違うでしょうか?
応用が効いて金儲けにつながるものなら、政府が金を出さなくても企業と組めば良い。しかし、応用が効かなくても重要な科学・研究というのは科学の相当な部分を占めていて、これらは政府が支援しなくてはいけない。
YKTさんは人命・基本的人権が大事なことにエビデンスが必要だと主張したわけではなく、自然科学の重要性も人命・基本的人権と同様に自明な原理だと主張したいのだと解釈しています。この主張でも無理があるかな、とは思いますが。
自然科学研究の推進が基本的人権に劣後することは、ほとんどの研究者の同意事項です。学生・ポスドクの人権より研究の推進を優先するPIもいるらしいという噂は聞きますが、そのようなPIのアカハラ行為に関しては、これに介入して学生・ポスドクの人権を守ることは公権力の責任です。
人命・基本的人権が大事であることは近代民主主義の前提であり合意であって、エビデンスは必要ないのですよ。まさかこんなことすらご存じないとは…。ますます研究者の社会的信用が落ちてしまいますね。
順番が逆になりますが、まずは議論のあり方について一言コメントいたします。
> 例えば、ぽととさんは上の方のレスで、「受益者負担の原則」で授業料を払えない低所得層の人間には高等教育は必要無いようなことを書いていましたが、
と書かれていましたが、これは具体的にはどの記述でしょうか。
> 高等教育が社会一般に与えるメリットはどのようなものがあって、そのメリットはどの程度大きいのかを示すことによって、高等教育に対する公的資金の投入を正当化できないだろうか、という問題提起が私の意図したところです。
のことを指しているのであれば、これは明らかな誤読です。YKTさんの書かれているような、「幅広い階層から才能がある人材を集めて高等教育を与え、社会で活躍させることによって、社会全体が恩恵を受ける」という主張は、受益者負担の範囲内で高等教育への公的支出を正当化する理由の一つになりえます(本当に理由になるかどうかの検討には引き続き議論が必要ですが)。
社会科学では、社会一般に受け入れられている命題(Aとします)についても、「Aという命題は何故真なのだろうか」という問題提起をすることがあります。それによってAを支える根拠を明らかにするためです。この時に、この問題提起に対して「お前はAを否定するつもりなのか、Aを否定するなんて非道徳的だ!」という批判をすることは学問的ではありません。正に問題にしているのはその道徳の根拠である以上、このような批判で問題提起を問題提起を潰してしまっては議論ができません。
研究者から社会への、基礎研究の重要性についての主張の質が上がらないことの理由も、この点にあるように思えます。研究者の間で「基礎研究の重要性を主張するにはどうすればいいか」という議論を行っている際に、提案されている理由の候補に対して批判的検討を加えようとすると、「お前は基礎研究の重要性を否定するのか、研究者の風上にも置けない奴め!」と袋叩きにあってしまいます。研究者ならば恐らく皆が経験しているように、命題の正当性に関する議論の質と説得力は、批判的検討を繰り返し受けることによって向上します。基礎研究の重要性に対する批判的検討を道義的理由で封止しようとすることは、かえって基礎研究の重要性の主張を弱体化させる行為なのです(ミルの「自由論」をお勧めいたします)。
「客観的エビデンス」の方は、私の説明不足です。求めているのは、自然科学が人類普遍の価値であることに対する客観的エビデンスではなく、近代市民社会の公権力行使の場において自然科学が人類普遍の価値として見做される地位にあるかどうかについての客観的論証です。「近代市民社会の公権力行使の場において」の部分には長い説明が必要なのですが、上記の議論のあり方についてYKTさんにご同意いただけるかどうかによって、その説明のあり方を変える必要が出てきますので、「人類普遍の価値」についての説明はここで中断させて頂きます。
「客観的エヴィデンス」と言うのは具体的にはどのようなものでしょう?
例えば、最も簡単な例として「人命」「基本的人権」を挙げてみましょう。
人命・基本的人権が大事であることの「客観的エヴィデンス」と言うのは何なのでしょうか?
ところで、ぽととさんご自身の立場は客観的エヴィデンスに基づいているのでしょうか? 例えば、ぽととさんは上の方のレスで、「受益者負担の原則」で授業料を払えない低所得層の人間には高等教育は必要無いようなことを書いていましたが、この立場に「客観的エヴィデンス」はあるのでしょうか?
多くの先進国では低所得層も高等教育を受けられるようなシステムはあって、「低所得でも才能があるなら伸ばすべく補助してやるべきだ」という風な考えの方が普遍的価値観だと思いますが。
革命家の母子家庭やレンガ職人とか、天才はどこで生まれるか分かりませんから、これは十分合理的な考えだと個人的には思います。そして、そのような才能を持った人間が就くべき立場に就けば、社会全体が恩恵を受けるのですしね。
結局こういう大学のパワハラ体質がある限り、コミュニティの改善は望めないのではないですか
http://www3.nhk.or.jp/lnews/kofu/1044498941.html
うーん、米国でも宇宙開発予算は厳しい目で見られて削減対象にされてますし、なんとか軍事目的で粉飾してカネをもぎとっている印象ですが。欧州でも素粒子物理のような基礎的科学は一国の予算ではなく国際協力体制の中で進めていくのが昨今の流れではないですか。国際情勢の真の姿には興味がないということでしょうか。
「動機」を繰り返し強調されるので、陽明学のような主張をされるのではないかと身構えてしまいました。
欧米でも日本でも、民主主義国家で為政者が自己の優越感を満たすため「のみ」に公的資金を使うことは非難の対象であり、同時に公益も満たされていれば許容範囲内であることは変わらないのではないでしょうか(欧米事情には詳しくないので推測ですが)。
素粒子論や宇宙の研究が役に立たないかどうかについては、私としては判断保留です。これらの分野の研究者たち自らが「役に立たない」と公言していることは知っていますが、かつては整数論の研究も、数学者自ら役に立たないと公言していたにもかかわらず、今では暗号技術などで立派に役立っていると聞いています(専門外なので伝聞ですみません)。社会的機能を考える上では、研究者の動機は問題ではありません。
それはさておき、YKTさんは「自然の真の姿を明らかにする自然科学は人類普遍の価値であり、国際社会に生きる日本はこの普遍的価値に貢献する責任がある」という立論をしたいという意図をお持ちなのでしょうか(違っていたらすみません)。「人類普遍の価値」は安易に増殖されては困る強い概念であるので、この立論のためのハードルはかなり上がります。どの程度の強い説得力を持つ客観的エビデンスを示すことが可能でしょうか。「自分たちが信じているから」では議論になりません。
どうやら「動機」についても定義上の齟齬が少しあるようですね。
ところで、基礎研究に多くの予算を割いているアメリカやヨーロッパ諸国の多くは民主主義国家なのですが、日本の民主主義と言うのはそれらとは違うのでしょうか?
「役には立たない」であろう素粒子論の問題に取り組むために莫大な金を使ってLHCなどというものを作ったり、宇宙の謎に取り組むのに何台も宇宙望遠鏡を打ち上げたり、火星に探査機を送ったり、太陽系外目指して宇宙船を打ち上げ何十年にも渡ってフォローしたり。そして、自国で囲い込むようなことをせずに、例えばNCBIなどデータベースを作って世界中の研究者が最新の情報を得られるようなシステムを構築して無料で開放したりしています。それによって、世界中の研究者がどれだけ恩恵を得ているか分かるでしょうか?
敢えて違う点を挙げれば、欧米には神学・哲学に価値を置く歴史が連綿とあって、科学はそれから発展してきたという点でしょうか。いずれにせよ、実際の動機が他の貴族に負けたくないとか税金対策だとか何であれ、彼等は先に述べた「責任」を果たしているように見えます。
「欧米の国民はこの世界の真の姿を追求する科学に興味があるけど、日本国民はそんなものに興味なんて無くて望んでないんだ」と言う認識であれば、もはや言うことはありませんが。
YKTさんのいう「責任」の中身が何で、それを果たすべき義務が本当にあるのかどうかという議論は置いといて、私が主張したいことは、重要なのはその義務が(存在するのであれば)実際に果されているかどうかという機能であって、果たしたいという動機ではない、ということです。
パトロンの例でいうならば、彼らの動機は実際には、「偉そうなことを言っている学者たちに札束をちらつかせて、彼らが目の色を変えてすり寄ってくるのを見て優越感に浸りたい」というものだったかもしれないのですが、それで科学への支出がなされるのであれば、政策論としてはそれでもかまわない、という立場です。
倫理的な問題としては、民主主義国家の官僚や政治家たちが、(自分の金ではなく)公的資金を使って、上記のような動機で政治を行うことには嫌悪感があります。
動機は非常に重要でしょう。
「地球や世界の他の国がどうなろうが日本社会の経済さえ保たれればそれで良い」
と言うことが許されるなら、ぽととさんの立場は正当化されるでしょうが、生憎、日本は既に先進国で、そのようなことが許される立場にはないと個人的には考えます。
日本社会の目先のことだけではなく、欧米各国が果たしている人類・世界への責任の一端を負う必要がある立場にあります。そうしてこそ日本の世界的地位を高めることにもなるし、それはノーベル賞受賞数で欧米の先進国に並ぶこと以上に大事なことだと思います。
そして、基礎的な科学の研究と言うのは、そのような、先進国の現世代が果たすべき人類/世界への「責任」の一つだと思います。
TYKさんの問題に対しては、基礎研究がイノベーションに寄与する際は、何か別のものと組み合わされることによってであり、何と組み合わせ可能かを事前に予見することはできないため、どのような研究がイノベーションをもたらすかを適切に判断するのは困難である、という趣旨で答えたつもりなのですが、確かに答の明示にはなっていなかったようですね。
また政策で重要なのは、動機ではなく社会的機能です。古代ローマから指摘されているように、良い動機で悪い結果をもたらした政策や、悪しき動機で行われたけれども社会的に有用な政策はいくらでもあります。動機などという内面的で不確かなものに拘泥するのは、政策論としては不毛ではないかと思います。
有用な情報の提供をいただき、ありがとうございます。仰るとおりだと思いますが、私の書き方が何か違うものを連想させるようであれば申し訳ないです。イノベーターはどこで知を収集して、社会につながる価値を生み出すかを考えたとき、多様な知がある場所の一つは大学ではないかと考えました。組合せを豊かにするには多様な知に触れる環境が必要です。大学内で完結するイノベーションなどあるわけないと言うご指摘であれば、それは全くその通りです。
パトロンによる科学の支援は重要な役割があったと言えます。現代でもゲイツ財団などは同じ役割を果たすことが期待されているように思います。日本で同様のものがあるかというと、これは文化の違いもあって難しそうです。パトロンの話題はどこから発したのでしょうか?国が基礎研究を支援することの価値については否定的にお考えと言うことでしょうか。
いやそれこそ昔の科学者は貴族のところに出向いてご機嫌とったりプレゼンしたりしてパトロンになってもらったんですから、そうしたければ今でもそうすればいいだけの話ではないですか。お金持ちは現代にもたくさんいますよ。
論点が抜けているように思うのですが、イノベーションというのは社会的な価値なので、科学内部でどんなに研究しようと、社会につながらなければイノベーションにはならないのです。科学的にも先端である必要はなく、枯れた陳腐な知識や技術であっても、それが新たな社会的価値を生み出せばイノベーションになります。
あと昔ながらのパトロンによる科学をやりたければ私的に寄付を募ってやればいいだけの話です。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa200601/column/007.htm
私宛のレスになっていますが、「どういう研究がイノベーションをもたらすかを適切に判断するのは困難である」という問題に答えている訳ではなさそうですね。
田中氏へのレスを間違えてされたのでしょうか?
ただ、おかげでぽととさんの言う「イノベーション」と言うのは、私が使っていたのとは意味が別で、かなり限定されたものを意味するのだと言うことに気付くことが出来ました。
科学におけるイノベーションが大事であると言うのは全面的に同意ですが、ぽととさんの言う意味での「イノベーション」が科学において絶対的に価値があるかと言われると個人的には否定的だと言わざるを得ません。もちろん私は研究者代表ではなく、個人的な意見です。
>「日本をイノベーションに有利な国にするために、社会的な知の探索である多様な基礎研究の振興を」という程度の主張は政策提言としてあってしかるべきです。
この1文については同意ですがそれ以下は今ひとつ理解出来ません。
>この意味で、イノベーションを第一目標にすることと基礎研究を振興することは全く矛盾しません。ところが実際の政策では、公的資金を用いて政府が自らイノベーションの主体となろうとしています。
>、公的機関が税金でイノベーションを起こすなんてことは不効率極まりないことです。そんなことに公的資金を投入するくらいならば、
「政府は『(ぽととさんの言う)イノベーション』に金を出すべきではなくて、実用は無関係な、純粋に科学的研究を支援すべきだ」と言うことでしょうか?そういう意見であれば同感です。
現在の政府が「(ぽととさんの言う)イノベーション」の主体になろうとしてるなら、そういう実用的方面に応用が効く研究は企業に任せるべきであって、政府は「基礎研究」の支援をすべきです。実用的な応用が効かない、役に立たない基礎研究にこそ、政府が資金を出す必要があります。
ちなみに、歴史的に、科学の相当な部分は「一般」の人々の日常生活からかけ離れた所で発展してきました。もちろん、力学・熱力学・発酵学・確立統計など日常生活に密着して発展してきた分野もありますが。芸術などと同様、役に立たない、一般人には価値が理解できないものを貴族や政府など権力者が支えてきたわけです。彼らがそれを庇護してきた理由は何だとぽととさんは思われますか? 貴族で「イノベーション」を期待してた人々がどれだけ居たでしょうか? 欧米の権力者が庇護してきた同様の動機は日本政府は持ってはならないのでしょうか? だとしたら、その理由は何なのでしょう?
「日本をイノベーションに有利な国にするために、社会的な知の探索である多様な基礎研究の振興を」という提言は、基礎研究者が主張したいことが凝縮されています。
イノベーターは組合せの発見者として価値ある存在というのは確かにその通りですね。国は基礎研究にこつこつ取り組む人材も支援するべきですが、イノベーターが生まれるような環境も準備する必要があります。イノベーターは広い領域から先端的な知を集める能力が求められますから、その点においても大学の価値というものを主張できるかもしれないと思いました。形式的な学際領域の設置ではなく、真にオープンな学術環境を形成することが重要な課題のように思います。
この議論はある意味イノベーションの本質を表しているようにも見えます。
シュンペーターの議論では、新しい価値の創造であるイノベーションは、既存の複数の知の組み合わせで達成されると主張されています。研究者の方々も、他の研究者の手法や概念、対象を自分の研究と組み合わせて新しい研究を行った方は少なくないでしょう。
基礎研究が何の役に立つかを聞かれて、「何の役に立つかは分からないけれども将来の役に立つ」と無責任に聞こえることしか言えないのは、基礎研究は何か別の知と組み合わされることによってイノベーションに寄与しているからであって、組合せ相手が決まらない限り、何の役に立つかは分かりようがありません。
この意味で、電磁気学と通信を組み合わせて無線通信を発明したマルコーニはやはり偉大なイノベーターであって、彼の発明以前には電磁気学が通信の役に立つということは恐らく分からなかったのでしょう。コロンブスの卵になってから「マルコーニでなくても誰でもできたはず」と主張している科学者はイノベーターとしては凡庸で、当たり前になってからもその価値を理解している点が、イーストマンの実業家としての偉大さを表しているようにも読めます。
イノベーションの可能性は、組合せの対象となる知が広範であるほど高まるため、新規性の高い多様な基礎研究は、イノベーションの可能性を高めることになります。経営学でいうところの「知の探索」に当たります。「日本をイノベーションに有利な国にするために、社会的な知の探索である多様な基礎研究の振興を」という程度の主張は政策提言としてあってしかるべきです。この意味で、イノベーションを第一目標にすることと基礎研究を振興することは全く矛盾しません。
ところが実際の政策では、公的資金を用いて政府が自らイノベーションの主体となろうとしています。しかし、リスクを負ってイノベーション自体を起こすのはあくまでも民間企業の役割であって、公的機関が税金でイノベーションを起こすなんてことは不効率極まりないことです。そんなことに公的資金を投入するくらいならば、法人税減税の原資にする方がよほど産業振興のためになります。産学連携が有用であれば、法人税減税で浮いた資金を用いて民間企業が自ら大学に投資すればいいだけの話です。
>基礎研究の成果がどのように将来劇的なイノベーションに結びつくのかは誰にも予想できない
これが全てですね。
「基礎から応用」の段階のみならず、基礎科学分野の中でさえも、研究の重要性が時の大御所にも理解できず、若い才能が冷遇されたり潰されたりと言ったことは、科学史を紐解けば幾らでも出てきますからね。大御所になる位の年齢だと新しいものを受け入れ難くなる、と言うせいもあるでしょうが、基本的に1人の人間が見通せる距離は長くないと言えるでしょう。それが現実です。
極端に言えば、「誰でも容易に理解出来る」ものというのはそれほど斬新なものでなく、「短時間では極々一部の人間しか理解できない」ものほど斬新でイノベーションに結びつく可能性が高い、と言える気さえします。
それなのに、「イノベーションに結びつくものを選択する!」と言うのはある意味危険で非合理的な発想です。
イノベーションがどうのということを第一目標に置くのは、結果と過程を履き違えていると言う点に於いて、ノーベル賞の取得目標と同じような気が個人的にはします。
幅広い観点からご教授いただき、ありがとうございます。重要なお話が次々と出てくるので、なかなか止めることができません。おつき合いいただき感謝いたします。
仰るように研究の価値の高低というのはありますが、それは研究の方向性についてではありません。むしろ、新規性や洗練された論理、実験科学ならば加えて再現性といった点で優れたものが、研究者にとっての価値ある研究です。研究領域の相違を取り上げて「つまらない」研究と評価することは慎むべき態度と考える研究者が多いと思います。こうした考え方は、基礎研究の成果がどのように将来劇的なイノベーションに結びつくのかは誰にも予想できないという見方に基づいています。社会のあり方を変えるというのは常に結果論的であり、最初からそういう大きな目標を掲げてもうまくいかないことが多いように思います。ベル研究所の成功に関する解析では、ざっくりした大きな目標に向かって、自由に基礎研究を推進できたことが良かった点としてあげられています。
ぽととさんのご指摘のように、基礎研究をイノベーション理論の中に適切に位置づけることができれば、それは基礎研究を推進する根拠として機能するということですね。研究者側もこうした取り組みにポジティブに参加できれば良いと思いますが、まだまだ交流の機会は少ないです。有益なインプットができるのであれば、自然科学の研究者もイノベーションの議論にもっと参加すべきですね。
> 「〜に支出するよりは高等教育への支援の方が価値がある」という文脈で説得力を増す材料を探すと良いでしょうか。
この議論では現在の財政状況では、両者への支出を止めて財政再建、というのが結論になりそうです。
過去の自然科学の偉大な研究が、科学者の純粋な知的好奇心に導かれていたことが事実だとしても、偉大な研究が偉大である理由はその内容にあるのであって動機にはありません。もし仮にファラデーやマクスウェルの研究が知的好奇心ではなく虚栄心や功名心に導かれていたとしても(彼らの本当の胸の内は今となっては分かりません)、彼らの研究の偉大さは全く変わらないはずです。
好奇心を動機とした基礎研究であっても研究の価値には高低があり、有限な資源は研究の価値に応じて配分しなければならない、という概念は、論文査読では多くの科学者が共有しているものと思われます(研究に貴賎なし、間違いがなければすべてアクセプト、という査読者は極少数でしょう)。研究者の考える研究の価値基準は、自然科学の人類への貢献と全く関係がないものなのでしょうか。自分たちが信じる研究の価値を社会的価値として主張できるのであれば、その方がずっといいと思うのですが。
社会のあり方を変えるような新しい価値の創造である「イノベーション」の研究は、シュンペーター以来の経済学の課題であり、イノベーション研究は現在も盛んに行われています。私見としては、基礎研究の重要性はイノベーション理論の中に正当に位置づけられるべきであると考えています。
また、現実の基礎研究で行われているのは、社会のあり方を変えるというよりむしろ一隅を照らすタイプの研究がほとんどです。そして、これら一隅タイプの研究が蓄積した基盤の上に多くの偉大な研究も成り立っています。基礎研究の重要性として過去の偉大な研究の偉大性を強調しすぎることは、現在の基礎研究分野における偉大な研究者(研究費を沢山持っています)への選択と集中を促進し、本当に研究費が必要な一隅タイプの研究への支援がおろそかになる恐れもあります。
丁寧に解説いただき感謝申し上げます。かなり理解が深まりました。受益者負担論に対抗するための説得力ある議論はどのようなものかを考えなければいけないということですね。この掲示板は専ら生命科学の研究者が対象ですが、提起いただいた課題は学術研究に携わる全ての方に投げかけられるものだと思います。教育は人間に品位を与えるというのは価値観の表明に過ぎないので弱いですね(しかも反例にも事欠かないです)。うまい考えが浮かびませんが、「〜に支出するよりは高等教育への支援の方が価値がある」という文脈で説得力を増す材料を探すと良いでしょうか。
基礎研究の話題については、既にご存知かも知れませんが、米国の医学研究者であるフレクスナーのエッセイを取り上げてみようと思います(日本語訳は山形浩生:http://cruel.org/other/useless/useless.pdf)。イーストマン・コダックの創業者であるジョージ・イーストマンは新たな産業を生み出す人材を育成するための教育基金を構想します。フレクスナーはその構想に関心を持ち、イーストマンに科学における最も有益な人物は誰かという質問を投げかけたところ、イーストマンは無線通信の発明者として名を轟かせていたマルコーニの名前をあげます。驚いたフレクスナーは、マルコーニは何ひとつ革新的な原理を見いだしていないこと、無線電信の原理はファラデーの理論をもとに電磁気学を確立したマクスウェルや、ヘルツの研究に負うところが大きいことを説明します。そして、ファラデー、マクスウェル、ヘルツらは真に独創的な研究を行ったが、マルコーニの果たした役割は、マルコーニが不在でもいずれ誰かが果たすことが予想されるものであることを述べます。
イーストマン自身も技術者であることを考えるとこのエピソードは興味深いです。即ち、基礎研究の価値は、先端的な技術として結実してもなお一般には理解しにくいということが分かります。イーストマンを現代の政府と考えると、ファラデーやマクスウェル、ヘルツといった才能が支援される可能性は低いかも知れません。また、ファラデーやマクスウェル、ヘルツの研究は公開されているからこそ先端技術につながっていったわけで、もしも成果(何に使えるかは当時はよく判らなかったはずですが)が囲い込まれていたら私たちの現代社会は大きく様相を変えていたことと思います。「期待値」という表現が良くなかったですが、自然科学では世界のあり方を変えてしまうような成果が生まれることがあり、そうした場合にはもはや経済学的な尺度で評価をすることが難しいと思います。人類への貢献という価値観に対するポジティブな評価が与えられない場合、基礎研究を支援することは難しいかもしれません。
高等教育についていうと、教育を受ける学生にメリットがあることは自明ですが、それだけのメリットならば、その費用は学生が授業料で負担すべきという議論になります。また、高度な能力を持つ従業員を雇用できる企業にもメリットはありますが、その場合、企業が能力に応じた高い賃金を従業員に支払い、従業員がその中から奨学金を返済すれば、企業が間接的に高等教育の費用を負担したことになります。ラボに学生が来なければ教員の研究が進まなくて困る、というのであれば、教員の研究費を学生支援に充てるべきです。それ以外に、高等教育が社会一般に与えるメリットはどのようなものがあって、そのメリットはどの程度大きいのかを示すことによって、高等教育に対する公的資金の投入を正当化できないだろうか、という問題提起が私の意図したところです。定量的評価が難しい、というのは田中先生の書かれている通りですが、社会一般へのメリットを主張できないのであれば、受益者負担論に押し切られてしまいます。公的資金投入を支持する論理としては、他にも福祉の論理もあるのですが、こちらはこちらで難しい問題があります。(低所得世帯の子弟に高等教育を与えて、低所得のポスドクを量産するのは、はたして福祉になっているのでしょうか…?)
基礎研究に関しては、ただ乗り可能だから公的資金で提供する必要がある、というのは確かに公的資金投入の理由になりますが、基礎研究が何故ただ乗り可能なのか、あるいはただ乗りできる状態にしておかなければならないのかという点が、研究のダイナミズムから遠い世界にいる一般の方々に説明できていないように思えます。役に立つ商品・サービスのための技術であれば、知財で囲い込みをすることができます。儲かるかどうかわからない事業にリスクを負って投資するのは民間企業の役割です。知的好奇心ならば、公開を有料にすれば受益者負担を求めることができます。広告収入という手段もあります。夢や希望は全国民に負担を強制すべきものではなく、有志の寄付で実施すべきでしょう。今ならクラウドファンディングという手段も使えます。
「基礎研究への支出は成功率は極めて低いですが、同時に期待値も低いかというと必ずしもそうではありません」という主張が、「期待値」を「収益」の意味にとるのであれば、この主張はむしろ、基礎研究が民間資本で実施可能であり公的資金は不要という意味に解釈することも可能です。
経済学の議論になるともはや追随していくことが難しいので、ごく初歩的な問いかけとなってしまうことをご容赦ください。
外部経済性(公共性)の程度を比較するというのは、例えば高等教育や研究の意義を数値化して議論するという理解で良いでしょうか(「どのように持っているか」という部分が理解できませんでした)。かなり昔の記憶ですが「自動車の社会的費用」(宇沢弘文)を読んで、自動車ひとつとっても社会的費用の計算というのは複雑だという印象を持ちました。高等教育、研究についてもどなたかが社会的費用の算出に取り組まれているかも知れませんが、自動車と比較すると遥かに難事だと思います。また、議論の入り口にはなるでしょうが、その数値が妥当かどうかも結論が出ないようにも思います。正の外部経済性という観点からの主張が多くないのは、確かな根拠に基づく議論にならないからではないでしょうか。
先端科学研究については、国民レベルで合意があるのであれば、力を入れないという選択肢もあり得ると思います。しかし、これまで先端科学が世界のあり方を変えてきたことは事実で、そこに少しでも我が国が関わりたいという希望はあっても良いように思います。一種の国際貢献という見方もできると思います。基礎研究への支出は成功率は極めて低いですが、同時に期待値も低いかというと必ずしもそうではありません。いわゆる「基礎研究ただ乗り」は合理的な判断かもしれませんが、そのあたりの方針は研究者のレベルを大きく越えるものです。
経済学的には、公的支出の是非の基準となるのは正の外部経済性(公共性)の有無です。したがってこの観点からは、自然科学の高等教育・基礎研究がどの程度の外部経済性をどのように持っているのかが議論の一つのポイントになります。教育・研究の意義一般に関してはこれまでも数多くの主張がなされていますが、正の外部経済性という観点からの主張はあまり多くないという印象を持っています。
一方で、外部経済性が疑わしい産学連携研究に関しては、社会貢献ではなく収益事業として位置付けて収益の最大化を図るべきと考えます。
短い記事で説明が不足しているせいかもしれませんが、「画期的な秘策」は思いつきの域を出ない案のように感じました。歴史的な議論の積み重ねを反映した練り込まれた提案とは思えないという印象から、反発する気持ちが強く出てしまったようです。何度か別の場所で指摘されていますが、理系の傲慢と捉えられることに対する配慮が欠けていました。
ぽととさんのご指摘はとても大事なことと私も思います。文理という区別で語ると紛糾することが多いですが、いずれにせよ学問領域同志の交流をもっと増やして、いろいろな思考のあり方があることを相互に理解していくことが必要だと思います。自然科学の研究者はもっと人文系の議論を学ぶべきですし、逆に自然科学については自分たちのアプローチの方法についてもっと説明した方が良いと思います。
社会にある多くの難しい課題はそうした分野を超えた協力の中で解決するしかないと思います。将来の協力関係を円滑にまた強固なものとするために大学では教養科目を学ぶわけですが、そうした目標のもと教養教育全体をデザインできている大学は少ないです。学部教育のおまけみたいな形で、教員の義務の一つとして場当たり的に提供されていることもあります。大学に限る必要はないですが、教養教育的な相互理解の場を広げることで議論の質が上がることと思います。
この手の問題は本来は、人文・社会系の先生方も交えて、人文・社会科学的基盤の上に立って議論されるべきことでしょう。
社会にとって何が良いことか、それらはどのようにして実現されるべきか、その中での国家の役割は何かという類の問題は昔から議論が蓄積されていて、自然科学の教育・研究の問題もこれら過去の研究の文脈の上で議論しないと話になりません。
この意味で文系の学問は非常に「役に立つ」ものであるにもかかわらず、理系の先生方はこれまで、文系の学問を軽視・迫害しすぎていたのではないでしょうか。自分たちのポストや研究費が増えればいい、という問題ではないのです。
こうした記事を見る度に、俯瞰的な意見を述べる能力をもった自然科学領域の人物を見いだし、これを研究者コミュニティが支えるという仕組みが必要なのではないかと思います。この教授の雑な議論に同じレベルでおつき合いするのではなく、高度な人材を国費で育成することの意義についてあらためて主張することが大事ではないかと思います。
財務省の「半分は大学が自前で稼ぐべき」と言う主張はどこに根拠があるでしょうか。何故半分なのか、2割でも8割でもない理由はどこにあるのか、説得力に乏しいです。何故これを前提として議論する必要があるのか疑問です。研究開発法人は相変わらずの処遇で、教育義務の附随する大学はどうしてここまで冷遇されているのか。国家のデザインのレベルでの議論もやっていただきたいです。戦いは先に土俵を決めた方が有利なので、そもそもその土俵の形は適当なのかと問うことができる研究者の代表が必要だと思います。
見識のある研究者はたくさんいらっしゃいますが、正面から自然科学研究や大学の意義を訴えるようなことは今さらと考えている方が多いような気がします。あるいはそのような主張は当たり前すぎて、恥ずかしいという感覚もあるかもしれません。私もしばしば「君の意見は誰でもとっくに理解していることだよ」と言われるのですが、それが官僚や社会一般で共有されているかというと、必ずしもそうは言えないと思います。
たしかにこの論理は雑すぎますね。これだと,成績の厳格化だけでなく,成績下位の者に補習などを課さねばならず(かならずしも同じレベルにまで引き上げる必要はないでしょうけれど),教員の負担増になります。
授業料を値上げするなら(全然決まった話ではありませんが),同時に奨学金制度の拡大によって,実質成績に応じて学生側のコスト負担を軽減するのが本来のやり方でしょう。ただし現状では国立大学法人は授業料収入(運営費交付金)から奨学金を出すことは確か認められていないので,規制緩和が必要となります。
> 成績が下位の学生は、上位の学生と同等の能力(全人格的なものではなく当該科目に関するもの)が身に着くようにするには、上位の学生に比べてより多くの教育の労力を大学・教員側が施さないといけないとみれば、それだけ高い授業料を課す根拠にもなろう。
こんな根拠で割増授業料を受け取ってしまったら、成績下位の学生が上位の学生と同等の能力を身に着けるまで教育の労力を施す義務が、大学・教員側に生じてしまいます。実現可能性と必要な労力を考えたら、授業料10倍でも御免こうむりたいとする大学が殆どではないでしょうか。
それはさておき、厳しい財政事情の中で国立大学が、受益者負担の原則の下に単価を上げて収入増を図るべき対象は、授業料よりむしろ産学連携収入だと思うのですが、如何でしょうか。
財制審メンバーの大学教授がこういうことを書いてるのですから、やはり公開の場で反論していかないと対抗できないのではないでしょうか。http://toyokeizai.net/articles/-/95461
いくつか疑問点があるので、よろしければお応えください。
・上記のご意見は、科学技術に関わる政策のみについてなのでしょうか?それとも、あらゆる政策についてそうすべきというご主張なのでしょうか?
・「責任のあり方を先んじておく必要がある」とのことですが、誰がどうやって決めるのですか?
・コンセンサスを取る対象の相手は誰ですか?
> …今の日本の状況なのではないでしょうか?
まさにおっしゃる通りだと思います。そこが大きな問題ですね。
以下のような案
http://scienceinjapan.org/topics/031413.html
を提案している理由には、科研費の審査のようなかなり透明性が高い仕組みを活用しつつ、「活躍」の度合いを可視化して、資源ができるだけ公正に配分されるようにし世代間格差を適正化する方向へ動かせるのでは、という意味もかなり入っています。そのあたりも議論したかったのですが、時間が足りず、残念でした。
単純にもどすというのは、なかなか外部(財務省、産業界など)の理解が得られないということはあるという気配を強く感じます。というのは、五神先生のスライドにあるように「パーマネントであることによってそのポストが輝いているのか」ということについて問題のあるパーマネントポジションホルダーが多いと思われている、というのがあるからです。
しかしながら、安定的な基盤的資金がないとまずいのは明らかで、そこででてくるのが以下の「競争性も担保した安定的基盤的研究費」の案です。
http://scienceinjapan.org/topics/031413.html
こういう案であれば、間接経費比率を上げてもかなりの安定が保たれ、かつ問題のあるパーマネントポジションホルダーについての対処もしやすくなります。外部の理解も得やすくなるのではないか、と思われるのですが。
この承継ポストの問題に対する対処が年棒制の導入であると聞いています。今でも国立大学は、年棒制・退職金無であれば任期無ポストを増加できるのではないでしょうか。
一方で、有限期間で終わるプロジェクトの実施を目的とした外部資金で研究者を無期雇用するのは筋が通りませんし、一度無期雇用してしまうと、プロジェクト終了後に次のプロジェクトが当たっても、その直接経費では既に無期雇用されている当該研究者の人件費を払えなくなります。この問題を回避するためには、プロジェクトの直接経費で、機関に既に無期雇用されているプロジェクトに関わる研究者の人件費を、プロジェクトに対するエフォートに応じた分だけ支出できるような制度変更が必要です。
競争的であっても成果連動・渡し切りの資金であれば、このような問題は生じないのですが・・・。
>ひらたくいうと今ひとつ活躍できていない大学のパーマネント職の人がかなりいらっしゃる
>と。運営費交付金の 削減の理由の一つは、そういう方々をなんとかしてください、という
>意味ではないかと思います。
このロジックは理解できません。
「今ひとつ活躍できてない」人達は現時点で既に既得権益を享受し大学・学会で実権を握っているわけです。そういう状況下で漫然と交付金を削減したのでは、その「活躍できてない」人達が自分たちの既得権益の維持・保身に走るだけで、皺寄せは若い、弱い立場の人間に行きます。
つまり、将来的に「活躍しうる人間」の可能性の芽を摘んでしまうわけです。これで悪循環に陥っているのが今の日本の状況なのではないでしょうか?
もし活躍できてないテニュアの人達が問題なら、交付金を漠然と削減するのでなく、その人達に使われないように用途を限るような制度を作るべきで、今の制作を続けるのはスマートなやり方とは言えないと思います。
なるほど。ただでさえお金のない大学側が退職金を出してまでポストを作りたいとは考えにくいので、退職金付きのポストが増えないわけですね。
前の質問のお答えと合わせて文科省目線で考えると、財務省は人口が減っている以上、大学の予算は増やせないというが、だからと言って研究費総額を減らすと研究の活性が下がってしまうので、多分文科省としてはプロジェクト型の大型予算を出して、一過性でもよいから研究費を総額で何とか確保している状態だ、というところでしょうか。そういう状態なのに、前に戻せと研究者が騒いでうるさいなあ、と思われているかもしれません。
文科省でのインタビューの方にその辺りの事情がよく書いてあったので、あの内容をもう少し本番で話してほしかったものです。
今回の議論ではあまり出てこなかったのですが、大型研究費などのプロジェクトは、目的がはっきりしており、文科省としては財務省や議員さんなどに説明がしやすい、ということがかなりあるようです。
一方で、五神先生の資料にある言葉を使っていうと大学の「パーマネントであることによってそのポストが輝いているのか」というと、そうでもないわけです。ひらたくいうと今ひとつ活躍できていない大学のパーマネント職の人がかなりいらっしゃると。運営費交付金の 削減の理由の一つは、そういう方々をなんとかしてください、という意味ではないかと思います。
ですので、大型研究費などのプロジェクトを減らしたところで、その分を運営費交付金に振り向ける、ということは事実上無理ということなのではないでしょうか。これは、もんじゅにかかっているお金を減らしたら、その分が基盤的資金にまわるわけではなく、社会保障とか防衛とか他にまわる可能性が高い、ということと同様ですね。
つまり、文科省のカバーする範囲の予算というのは、中の個別のものが、それぞれ財務省に査定されて決まり、その個別のものの集まりとして総額が決まる、という形になっているわけですね。ですので、文科省関連予算の中で最適化をはかる、ということがやりにくい、ということになっているのではないでしょうか。ドンと全部が文科省に割り当てられて文科省内部で最適化できれば、もっとバランスがよくなるのかもしれないのでは、と思いました。
ポスト数ですが、法人化時に大学が財務省から得た「承継ポスト」の数に縛られている、ということかと思います。「承継ポスト」には運営費交付金とは別枠の退職金がついていて、それが事実上の「しばり」のようになってしまっていると。退職金のことを考えないとすれば、外部資金を期限なしのポストで使用しても問題なく、それをしないのは大学側の問題、というのが文科省の見方という解釈をしています。
宮川先生。これらのテーマはとてもよく的を得ていると思います。
川上先生、原田先生、運営費交付金の削減についてはこの財務省の資料http://www.mof.go.jp/about_mof/councils/fiscal_system_council/sub-of_fiscal_system/proceedings/material/zaiseia271026/02.pdf の18〜25ページの見解にたいして、説得力のある議論をすることが必要となってくるかと思います。
本日、議論するテーマについて、近藤さんの案は、以下のようなものになってます。
1. ポストの問題をどうするか?
2. 新たな財政出動は可能か?
3. 競争的すぎることの弊害をどうするか?
4. 透明性をどう確保するか?
5. 世代間の不公平性、どう解消する?
このうち、2と3くらいの部分で運営費交付金の問題も出てくるかもしれません。「#ガチ議論」のハッシュタグでのツイッターでのご意見を会場サブスクリーンに常時うつしっぱなしにする予定ですので、ぜひ。
twitterでは良く文句を言っていますが、ここには初めて投稿します。
以前地方大学にいた身としては、とにかくこれ以上運営費交付金の自動的な削減だけは止めてほしいと思います。これを続けると日本の科学が壊滅してしまいます!
他のことは後回しでよいので、最悪の状況を逃れるため、これだけでも訴えてもらいたいです。
卓越研究員については、(1)結局はポストを増やす制度ではないこと、(2)(運営費交付金が減らせれ続けるにもかかわらず)研究機関に負担をおしつける制度であること、(3)人事権を研究機関から奪い、個々の研究機関の個性や独立性を損なう可能性があること、(4)結局は卓越研究員の所属が少数の限られた研究機関に集中することが予想され(研究のレベルの面でも、そのあとの雇用の余力の面でも)、研究機関の格差を増大させる可能性があるものであること、(5)卓越研究員を一括して選抜するため、業績中心の選抜になり、出身機関の偏り(ビッグラボの出身者)を招く可能性があること、などの短所や弊害の方が考えられるので、私は心配していますし反対です。この制度の応募には年齢制限があるのでしたっけ?年齢制限があるのでしたら、さらに反対です。
そうはいいましても、この制度が始まってしまえば、応募せざるをえないような立場の方が多いので、応募者が殺到する、という事態になるとは予想しますが。
当日参加できなくて申し訳ないのですが。防衛費は過去最大、法人税は減税を検討されている状況で、私たちは、「運営費交付金をこれ以上減らさない」という議員や政党を見つけるか作り出して、それを支持する、というような運動を展開しなくてはならないのではないでしょうか?
すみません、ライブ配信のみになる可能性が高いと思います。
ライブ配信のみでしょうか?後日拝見したいのですが、、、
最近のオリンピックの件のように、明らかに問題があったような場合では、文科省の方々は更迭のようなかたちで責任を取られたようです。
しかしながら、ポスドク1万人計画のように、その成果が10年、20年とたたないとわからないような案件ですと、すでに実際に責任ある立場で関わった方々の多くは既に文科省を出られてしまっているのではないでしょうか。形として責任をとる、ということは困難なような気がします。
研究・教育についての施策は、10年どころか30年くらいの長期的な視点でみないと評価しにくいことも多いと思いますが、そのような場合の「責任」の取り方というのは具体的にはどのような方法が考えられるでしょうか。
大丈夫です。20年以上前の政策に関して、責任など取りようが無いのは判っております。ただ、責任をとってほしいと言う意見があることは、確認しないといけません。その点はうまくやりますので、ご安心を。
私はガチ議論の本番に参加できないので、web配信はとてもありがたいです。
ところで、以前あった「責任」の議論についてですが、過去の政策の責任の追及はやめた方が良いのではないでしょうか。
というのは、仮に責任の所在が明らかになったところで、責任の取ってもらいようがないからです。
一方で、「責任」を追求したことで今後の改革にも「責任」が求められることになるわけで、そうすると「責任」を取らされる立場の人が及び腰になって、改革の実施が困難になることが予想されます。
恨み事を言いたくなる気持ちはすごくよくわかるのですが、後ろを向くよりは前を向いた方が得策だと思うのです。