【帰ってきた】ガチ議論
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研究者の議論をどう活かすか

ツイッターまとめ
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 研究不正について当事者である研究者が議論することには一定の意義があることは間違いありませんが、一方でこれは研究者の間でコンセンサスが取れれば自ずと解決するという性質の問題ではないことは明らかです。特に再現性の検証が難しく、学説が定着するまでに時間のかかる生命科学領域では、一種のモラルハザードが起きやすいという弱点があり、この点を直視した制度設計が必要です。米国でNIHが研究の再現性検証のために取り組みを始めていることは、再現性のない生命科学研究が国際的な問題でもあることを示しています。研究者が健全に振る舞うためには、それを促すような制度設計と、科学研究の発展を損なう行為に対してこれを適切に排除していく仕組みが必要です。

 以前、文科省の官僚の方に受けた助言として、その問題は誰が解決するべきなのか、レイヤーを明瞭にするべきという指摘がありました。研究者の多くは科学技術政策決定のプロセスに関心が低いため、自らの負担が増えるような施策が出る度に文科省を悪者にしがちですが、そういう認識を改めて大きな視野で物事を考えるべきと言うことです。研究者ができること、研究機関ができること、文科省ができること、さらに上の意思決定が必要なことといった仕分けをして考えることが大事ということです。そして可能ならばどのレイヤーの構成員も自らが出来ることはすすんでやるべきです。

 これまで研究者側では何ができるのかについては様々な議論があり、その中には非常に優れたアイデアもあったように思います。ただ、現状では研究者側ができることは限られていて、こうしたアイデアの中から研究者の多くが納得できそうなものを選択して提案するところまでだと思います。しかもそれらはとりあえず公表して、科学技術政策に関わる人の目にとまるのを待つという、神への祈りのような状況です。また、研究者にはいろいろな背景の方がいらっしゃるので、議論がまとまるということはなく、積極的に議論する研究者たちもいずれは疲れ果ててしまうかもしれません。これはあまりに辛い状況ですので、ここではこれまでの議論とは別の軸で意見を述べたいと思います。

・研究不正に対する対策
 研究公正局的な組織の設置についてはここでも議論があり、具体的なアイデアもでています。組織の有無という論点にしぼれば、必要と考える研究者が多数派かも知れません。一方で、現在のように公正局がなくてもガバナンスを発揮できるはずという見方もあり、これもある程度は正しいように思います。理化学研究所のガバナンス担当理事や、東北大学の井上総長の事件の際の副学長はいずれも文科省出身者であり、彼らが本来の職分を果たせば混乱はもう少し小さかったかもしれません。彼らは退職者ではありますが、研究機関と文科省をつなぐ存在として価値があるというのは容易に想像できることです。様々な議論はありますが、研究不正は国家にとってマイナスという真摯な意識を文科省出身者が持つことは非常に大事だと思います。外形的な事実からは、文科省が研究不正を重要な問題と認識しているようには見えないので、この点は改善していただきたいです。個人的には公正局は必要という意見ですが、米国のORIで問題となっているように運営する人間の姿勢が正しくなければうまく機能しないと思います。

・人材育成のあり方について
 人材育成については様々な意見や試みがありますが、研究人材に絞って考えれば、プレゼンテーションや人付き合いが上手であることより、むしろ一つ一つのブロックを確実に積み上げるような誠実さが重要であることは明らかです。斬新な研究を実施するためには自由な発想も欠かせませんが、それは荒唐無稽な妄想とは区別されるべきものです。早稲田大学先進理工学部の一部における学位認定には明らかな問題があり、それは大学院教育そのものが適切に行われていないことを示唆しています。大学院修了者が今後被ることが予想される不利益を考慮すれば、当該研究室における大学院進学は直ちに停止されてしかるべきですが、放置されているのではないでしょうか。次の項目とも関連しますが、科学の訓練を受けた人材の価値を文科省自身が軽視していることが様々な問題の根底にあるように思います。他の官庁ならばいざ知らず、文科省は博士人材の有用性を社会に訴えるべき立場だと思いますし、有用でないと考えているのであれば、他の先進国と同程度に博士人材の価値が認められるような大学院となるよう改革を進めるべきです。

・科学の専門性に対する姿勢
 理化学研究所の迷走ぶりは、スポーツの審判の判定に対して観客の異議を取り上げることによる混乱に似ています。あるいは、これまでの研究不正に関する裁判では、科学的な判断を司法に委ねてしまうという失敗が何度も繰り返されてきました。今回の早稲田大学の調査委員会の結論はとても科学者の議論に堪えるような内容とは言えませんが、科学の専門性を科学の外に委ねてしまうとここまで恐ろしいことが起こることを示していると思います。こうした判断が公的に承認されるようであれば、早稲田大学のみならず日本の博士の学位の価値は地に落ちることでしょう。
 研究不正問題では明らかに科学者による判断が必要な範囲が存在し、その点は全体の評価とは切り離されなければいけません。一方、最終的な判断は社会的なものであり、研究者の感覚とは相容れないこともあるでしょう。文科省は、科学の訓練を受けた人材をこれまで以上に受け入れることを通じて、科学と社会の間の境界をふまえた判断を自らできるような官庁を目指すべきだと思います。「科学的にナンセンスなので再実験は必要ありません」あるいは「科学的にはナンセンスですが、社会的な判断として再実験を必要と考えます」ということが、官庁から明言できることが大事です。現在のように何の説明もないまま物事が進行し、文科省はこう考えているのだろうと忖度されるような状況は、責任を問われないという意味では好都合かも知れませんが、海外や多くの科学者との信頼関係を毀損するものです。また、政治家と研究者の間のレイヤーとしても文科省には重要な役割があるはずですが、今のところそうした機能は発揮されているとは言えません(むしろノーベル賞受賞者であっても科学の倫理を曲げざるを得ない状況です)。こうした構図は特異であり、国際的に説明可能な状態ではありません。

 少しでも研究者間の議論に実効性を持たせたければ、科学技術政策に身を捧げる研究者を送り込むしかないと思われます。研究活動も、科学技術政策も、いずれも片手間でできるようなことではないでしょう。現在のところ、代表とする組織を持たず(該当しそうな組織は全くの沈黙状態です)、延々と議論を続けるしかない研究者は、相当不利な立場です。他のレイヤーのプレイヤーにも責任をもった発言や行動を求めなければ、解決を目指すことは難しいのではないでしょうか。

Satoshi Tanaka

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