【帰ってきた】ガチ議論
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「政府による大学改革はやらない方がましかもしれない」というお話し

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ここ10年くらい、政府による大学改革が実行に移され、大学はてんやわんやの状態である。大学人たちの多くはこれに反対の意見を主張するが、国立大学法人は国からの運営費交付金で成り立っているので、相手は「スポンサー」ということになり、旗色が悪い、というか勝ち目がない。だが、施行された多くの改革が、本当に大学を良くしているのかどうか、についてちゃんと確認が取れているのだろうか?逆に悪い方に行っているという可能性は?

もちろん、大学側に問題が無いとはいわない。人事や運営の非効率とか、内部にいても「いくらなんでもあかんやろ」と思える問題は無数にある。だが、それを外から無理やり振り回しても、そう簡単に良い方に向かうという保証はない。昨今、日本から発信される論文の数・質が急速に低下している、というデータがあるが、もしかすると、その改革とやらが原因ではないか?と感じている人も多いだろう。競争的資金を取るために、色々な(本当は意味無いんじゃないかと思えるような)プロジェクトを無理やり立ち上げさせられ、それに莫大な時間を取られていれば、研究の進みが悪くなるのも当たり前である。

平成12年に科学技術基本計画が発表され、「ノーベル賞に代表される国際的科学賞の受賞者を欧州主要国並に輩出すること(50年間にノーベル賞受賞者30人程度)」が目標とされた。で、平成12年から26年までの15年間に日本人受賞者は、なんと14人である。(米国籍の南部陽一郎、中村修二を含む)この数値は、ぶっちぎりの米国を除けばトップクラス(国籍が米国に移している人が多いので、国別の正確な数字はちょっと解らない)だ。50年だと、47人という量産体制であり、科学技術基本計画の目標値をはるかに超えている。文句のつけようがない。さて、ここで大事なのは、これ等の受賞者のほとんどが、旧来的な大学の環境で育っている、ということである。

科学技術基本計画の目標は、「50年間にノーベル賞受賞者30人程度」を生みだす環境を作り出すことである。で、数値は、それを凌駕するものが既に存在する(した)ことを証明している。では、なぜそんな素晴らしいものを、外部から振り回して変える必要があるのか?せっかく存在する素晴らしい環境を、破壊している可能性を考えたことはありませんか?

近藤 滋
(この意見は筆者が所属する組織の意見を反映しているものではありません)

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“「政府による大学改革はやらない方がましかもしれない」というお話し” への10件のフィードバック

  1. Shob_ushi より:

    この問題、研究者vs文科省とすべきではないと思うのです。

    本当の敵がどこにいるのかわかりません。が、文科省としてはどちらかというと研究者側に立ちたいはずで、けれど上から効率を求められているので、それに従っているのではないかと思います。

    で、上とは何か、求められている効率とはなにか、その辺を考える必要があります。

    文科省の意思決定システムがどのようになっているのか私には知る由もありませんが、少なくとも担当事務官が独断でやっているということはないはずです。専門家が何らかの形で関与していることでしょう。

    将来の設計というのは不確定要素が多すぎて難しいものです。しかし現状維持はもはや受け入れられる選択肢ではないようです。

    事務系の組織は、だれも責任を取らなくていいシステムが基本です。しかし大学は、誰かが責任を問われる条件で、権限を持つほうが良いはずです。今まさにそういう仕組みの導入が検討されていて、学長権限強化がなされているわけですが、多くの大学で学長は組織運営の観点ではほぼ素人なので、本当にそれでいいのか?と思います。

  2. Shinichi Nakagawa より:

    新しい学問分野に必要な分野横断的な基礎知識を体系的に学べる場を作ることが重要なのは全くそうだと思います。ただ、文科省の要求に応えるための事務負担があまりにも大きく研究者が疲弊している現状を考えると、学部の新設、と聞いても、またか、、、とため息が出てきてしまいます。学部を作らなくても、学部をまたいだ講義や実習を受けられるようにすれば対応できるのではないかと、そういう努力をしてる事業所は、運営費交付金を一律に減らさなくてもよいのではないかと、思った次第です。

    一生懸命新しい学問を作ろうとしている努力に水を差すような書き方だったかもしれませんが、そういうつもりは全くありません。ビッグデータ関連にせよ、バイオインフォ関連にせよ、これからどんどん伸びる分野ですし、分野をまたいだ連携が進められている見本的な研究分野だと思っています。

  3. 近藤滋 より:

    >wakabayashiさん

    コメントありがとうございます。

    このコラムは、文科省の考え方について議論するというのが趣旨で、研究者間の議論を目的とはしていなかったのですが、ちょっと、文科省サイドの返答を得るのに手間取っている(忙しいとのこと)ので、まあ、こちらサイドの議論をするのもよいかと思います。

    まず、「大学の経営をするのが、教授(素人)ではだめだ。」という点に関してですが、全く同じ意見です。
    大学、学部の経営には、ちゃんとしたプロ(もちろん、研究、教育のこともちゃんと把握した人材)が必要なのに、それがないままに、法人化(自己責任化)が進んでしまっていることが、問題を大きくしていると思います。

    素人のトップがかじ取りする中、競争原理が導入されました。各大学、部局は、競争的資金を得るために、いろいろなプロジェクトを立ち上げることを余儀なくされました。それらのプロジェクトに応募・運営するためにかなり大きな労力が必要とされます。しかも、そのプロジェクトには部局の将来がかかっていたりするので、手が抜けず、結果として、研究への集中度が減らざるを得ません。それが、論文数の減少の理由ではないかと考えます。(客観的な根拠はありませんが、、、)
    昔の研究環境では、お金は無くても、教員は研究に集中することが可能だったように思うのですが、どうでしょう。ノーベル賞の受賞対象となるような研究は萌芽的な研究が多いですから、巨大なグループとか、莫大な資金(カミオカンデを除く)は必要でないものが多かったと思います。

    学生の数の増加は、、、良かったのか悪かったのかわかりません。人数が増えても、ある程度の環境があれば、学生は自力で育つことも多いからです。ただ、増えすぎて、就職難が起きた結果、特に、この10年くらいで大学院入学者の数、質(入試の倍率を見れば明らか)が落ちていることは否めません。

  4. Yoshiyuki Wakabayashi より:

    ”旧来的な大学の環境で育っている”と文言に対して、コメントします。
    なにが”旧来”と”現在”とで変わったのでしょうか?21世紀はバイオの時代といわれ、1980年代以降、巨額の政府の資金が研究費、教育費として、日本の大学、研究所に投資されてきています。資金が潤沢に回るようになり、機器設備も充実し、研究環境が向上したと思います。様々な重要な発見が行われ、日本の生物学分野の勃興を感じておりました。30年が過ぎ、現在、総額として政府からの資金援助は増える事はあっても減額された事はありません。また、過去20年間の物価の下落を考えれば、それなりに投資額は実勢では増えていると言っていいと思います。にもかかわらず、危機が生じているという声があるのはなぜでしょうか?
    豊田長康学長が様々なデータ解析をされて、ネット上に解析結果とご自身のコメントを載せられています。
    http://blog.goo.ne.jp/toyodang/e/2b1307b461f2ed4d9c5bb8d13e31ae89
    日本の競争力を挙げるためには予算の増額が必要との結論のようですが、最後の日本の割合と称するグラフを見れば、2002年ごろから徐々に日本の存在感が低下していると読み取れます。論文を出版するまでには生物系では通常3−5年はかかると仮定すれば、90年代に国立大学で起きた変革が原因ではないでしょうか。国立大学が独立法人化されたのが2004年、その後から交付金の減額が始まっています。交付金の減額がよくやり玉にあがっていますが、豊田先生の解析手法が正しいとするならば、交付金の減額が主たる原因にはなっていないのではないでしょうか?1990年代におきた大きな変化と言えば、私が頭に浮かぶのは大学院重点化による大学院生の大量受け入れです。当初は、学生にとっては選択の幅が増え、教室主催者にとっては、安価な労働力が増え、自信の研究が加速するはずと考え、皆、喜んでいたと思います。従来は一教室、もしくは一人の指導教官に対して少人数の大学院生しか採用できなかったわけですから。現在はどうでしょう?多くの研究グループに10人以上の大学院生が在学している事も珍しくありません。一個人が指導できる大学院生の数はどのくらいなのでしょうか?研究分野によって一概に言えないですが、10人以上の大学院生を抱えれば、指導が行き届かない状態になるのではないでしょうか?大学院生を受け入れないと交付金が減らされるので、枠いっぱいまで採用する必要があるのかもしれません。一方で、指導者の能力以上に学生を採用した場合には、教育が行き届かず、研究者として半人前のまま世に出る事にもなります。粗製濫造と言う言葉を使うのが適切とは思いませんが、人数を多くすれば研究がさらに進むと考え、安価な学生の枠をふやしたために、結果、研究の質が落ちたのではないでしょうか?一人の研究主催者がいったい何人の学生を教育でき、いくつの異なった一流の個別の研究計画を立案できるのでしょうか?人により才能は異なり、一概には言えませんが、個々の教室主催者の能力の限界を顧みずに、人員んだけ増やした事が問題なのではないでしょうか?無理な学生受け入れをやめ、大学院重点化前の枠(4ー6000人前後だと思います)に戻せば、毎年、4000人前後の教官が退職する訳ですから、博士取得者とポジションの秋のバランスが戻り、ポスドク問題も消滅します。もっとも、日本の産業界で博士が活躍することを夢見ていた政策は失敗におわるのですがそれはしかたがないのかもしれません。

  5. Yoshiyuki Wakabayashi より:

    中川さん、私自身がアメリカにて次世代シークエンスに関わる仕事をしていますので、データサイエンスに関してコメントします。解析に関してツールであり、利用法を学習すれば生物学者でもつかえるという認識をお持ちのようですが、そのような利用法はごく初歩的な物ですし、コンピュータ言語、物理、数学の素養のない生物系の学生に学習をさせたところで、費用対効果で考えれば無駄ではないでしょうか?アメリカでは、解析はバイオインフォマティシャンが行う事がほとんどだと思います。いかに優秀なバイオインフォマティシャンと共同研究を行えるかということが、研究遂行の上で非常に重要になっており、人材の争奪が激しい状態です。バイオインフォマティシャンを養成するためには、先に挙げましたようにコンピュータ言語、物理、数学の素養がまずあり、その上でバイオロジーに興味を持った人材が必要になり、分野横断的な教育が必要なために、育成が困難とアメリカでも考えられています。また、生物系だけに関わらずビッグデータを解析する機会は飛躍的に増えており、(バイオ)インフォマティシャンの社会に置ける必要性は増える一方だと思っています。生物系の仕事をしていた人材も、アマゾンや金融など業界の垣根を超えて転職していきます。生物分野の方から見れば、データサイエンス学部の新設に関して疑問を感じられる事があるのかもしれませんが、私は滋賀大学の決定は理にかなっているように感じます。もっとも、新設学部の運営費をどのように捻出するのかがポイントにはなるのだと思いますが。社会の変化に伴い、学部の統廃合、新設を常におこなっていくことは、必要ではないでしょうか?
    日本の大学の問題点は、大学運営のプロがいないということだと思うのですが、いかがでしょうか。アメリカに在住して、アメリカ式の大学運営に洗脳されているからかも知れませんが、限られた予算の中で、いかにして生産性の高い組織を作り出し、運営するのかがもっとも大事なことだと私は思っております。生産性と書くと大学にはなじまないとおしかりを受けそうですが、教育や研究の質を高めるためにはどうするべきかと言う事に関して、真剣に議論を行い、決断、実行できるような人材を将来の学長や理事候補として育成していくことが必要かと思います。従来の学内の教授を大学長に就任させるやり方には限界がきていると思います。

  6. Shinichi Nakagawa より:

    田口さんの「どこに改善の余地があるのか」、という観点から考えてみたのですが、既存の組織を時代に合わせて変えていくという努力を研究者・教育者サイドはしなくてはならないのに、それを積極的にしていないと見られているのではないかと思いました。例えば、最近の滋賀大学の学長さんは、人文社会系の学部の改組を促す文科省の通達に対して、

    「文科省通知にある「社会的要請の高い分野」とは何なのかにつき思いを巡らせ、たどり着いたのが「ビッグデータ時代の人材養成」を目指すデータサイエンス学部の創設(2017年度予定)だった。」

    と答えておられます。
    http://www.nikkei.com/article/DGKKZO88343910R20C15A6CK8000/

    胸を張って言うことかな、と、ちょっとびっくりしてしまったのですが、社会的に要請の高い分野(データサイエンスは学問というよりは技術といったほうが良いと思うのですが)は時代とともに急速に変化しますし、それに対応するためにやらなければならないのは、どう考えても莫大な時間と手間のかかる新学部の創設ではなく、シラバスの変更です。たとえば生命科学の分野で言えば、次世代シークエンサーのデータを自在にいじれる人材を要請するために即効性があるのは、バイオインフォマティックス学科を創設することではなく、分子生物学なり分子遺伝学なり発生生物学の演習でツールの使い方を教えるとか、統計学の講義で具体例としてそれらを取り上げることの様な気がします。

    新しい入れ物を作るのであれば、古い入れ物を捨てなくればなりません。捨てずにどんどん新入れ物を作るから、組織はどんどん複雑化し、運営コストだけが増加している様な気がします。捨てられないのであれば、それをどんどん新しいものに変えていかなくてはなりません。10年前のシラバスとさして変わり映えのない内容がいまも並んでいるのであれば、それは教員の怠慢と取られても仕方がないと思います。実際のところそのあたりはどうなのでしょう。

    そういう意味では、「政府による大学改革」を「組織や制度の新設による大学改革はやらないほうがマシ」と読み替えられるとすれば、まったくその通りだと思います。

  7. 近藤滋 より:

    >そのつっこみは向こうにも痛く痒くもないだろうなあという意味で反論として有効性が薄い

    いやいや。このノーベル賞ネタは、いろいろ突っ込めますよ。あくまでも、議論の取っ掛かりですので、今後の展開をお楽しみに。

  8. 田口善弘 より:

    近藤先生

    おへんじありがとうございます。反論、というより、そのつっこみは向こうにも痛く痒くもないだろうなあという意味で反論として有効性が薄い、と思うんですよね。相手を説得するには相手の土俵に乗らないと。こっちが「基礎」だと思っていることは、結構、「基礎」じゃなく「無駄」だと思っているかも(例えば、いままさに先生がおっしゃった「優秀な学生ほど『好きなところに行って、好きなことを好きなだけやれ』っていう」と言うこと自体、政府からしたら「大変な教育費をかけて育てた学生にその道を究めることを勧めないとはなんたる『無駄』か、ぜひ、制度を変更しよう!」とかなってしまいかねないわけで(笑))。まあ、お前が普段ネットで言ってることと違うだろ、と言われらそれまで、ですが。

  9. 近藤滋 より:

    (^^)/反論ありがとうございます!
    そんな学生がいたらいいなあ、、、、もしいたら、、、たぶん私は「真面目にやれ」とは言いません。俺の所にいてもしょうがないので、好きなところに行って、好きなことを好きなだけやれ、と言いますね。
    もちろん改善の余地はいくらでもあります。改善はするべきです。しかし、上手くいっているシステムを基礎から一変させるような改革は、今までに作り上げてきたメリットを消滅させるかもしれません。現在のシステムの成果が良ければよいほど、その変革には慎重でなければいけません。そこのところ、わかっているのですか?もしかすると、「現在のシステムは全然ダメ」という脳内前提で、改革を進めていませんか、という問いかけです。

  10. 田口善弘 より:

    「なぜそんな素晴らしいものを、外部から振り回して変える必要があるのか?」の理由はたんじゅんなのではないでしょうか。例をあげましょう。近藤先生のところにすごく優秀な学生が配属されました。素晴らしい実験をして近藤研の歴代の院生で問題なくトップクラスの成果
    をあげ英語もよくできて論文も自分で書いて投稿し、D1で学位を取りました。しかし、この学生はあまり真面目でなく週に3日しか学校に来ない上に、来ない日は研究と何の関係もないことに費やしています。さて近藤先生はこの学生に「お前、もっとまじめにやったら伸びるから頑張れよ」と言わないですか?もし学生が「十分よい結果を出しているのだから余計なことを言うな」と反論したら納得しますか? 「なぜそんな素晴らしいものを、外部から振り回して変える必要があるのか?」はそういうことでしょう。既によい結果が出ていることと、改善の必要が無いこととは必ずしも一致しないんですよ。向こうは「改善の余地がある」と思ってやっているのですから。

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