【帰ってきた】ガチ議論
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jenga

基盤的研究費は「安定した科研費」の仕組みで

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最近、米国NIHが研究費の過度の集中を防止する策を発表しました。

これは、一人の研究者が受ける研究費の額と、その成果は、ある一定レベルの研究費(70万ドル程度)をピークに落ちる、という研究成果などを受けて行われたものと思われます。

日本でも同様に、過度の集中を防止し、国立大学の運営費交付金を増加させ、それを基盤的研究費にあてるべき、という意見がかなりあるようです。
過度の集中を緩和し基盤的研究費の比率を増やすべき、という考え方には大賛成なのですが、それを国立大学への運営費交付金の増加によって行うという案については賛成できません。
運営費交付金によるのではなく、「安定した基盤的科学研究費」の仕組みを導入し、そこに集中的に予算を投入することによって、基盤的研究費の比率を増やすことがベストの方法であると考えます。
この仕組みの案についての詳細は「安定した基盤的研究費の導入を!」のトピック
をご参照いただければと思いますが、簡単に要点のみ紹介しますと以下のようになります。
・各研究者を評価することによって、S、A、B、C、Dなどのカテゴリーに分類し、そのカテゴリーをベースに研究費を配分する。
・評価は、5年毎程度の頻度で、各研究者の実績を中心に、今後の研究計画とその将来性・発展性などの観点も含め、総合的に行う。

このような案がもし実現すれば、研究費の額はゆるやかに変動するが、突然ゼロになるようなリスクは減少します。「当たるか外れるか」というようなギャンブル性はほぼ無くなり、安定した配分が期待できるようになります。

運営費交付金によるのではなく「安定した基盤的科学研究費」の仕組みを導入したほうがベターであろう理由を以下にリストします。

1. 研究しない教員の問題

5年や10年論文がほとんどないというような大学教員は残念ながら、少なからずいらっしゃいます。大学では、一旦、終身雇用の職に就くことができれば、研究をしようがしまいが、安定したポジションの下、年功序列で給与が上がっていく場合がほとんどだからです。このような方々に、運営費交付金から基盤的研究費を一律に支出した場合、研究成果は増えるのでしょうか?おそらく、増える人もいれば、何も変わらない方々もいらっしゃるでしょう。研究成果を着実にあげているのに非常勤の職で苦しんでいらっしゃる研究者が多いことが社会問題になっている一方で、研究成果をほとんど出されていない方々が貴重な常勤ポジションを専有し、加えて常勤教員というだけで一律に基盤的研究費がもらえるような仕組みにしてしまうというのはどうなのでしょうか。
「安定した基盤的科学研究費」であれば、これまでの科研費審査の仕組みを活用した形で個々の研究者の評価がなされ、研究成果があまりにも少ないような場合はゼロになりますので、そういった問題は回避することができます。

2. 内部的な評価は二重評価でムダ

運営費交付金による基盤的研究費も大学の裁量によって、額を決め各研究者に分配すれば良いのではないか、そうすれば研究しない教員にムダな研究費がまわることも防止できるであろう、という考え方もあるかもしれません。しかし、そのような選択肢を大学がとる場合、つまり一律ではなく個々の研究者に額を変えて配分するような場合、そのための評価は、どうするのでしょうか?
一人一人の研究者の評価を大学が行う場合、1) 学内評価者が必要となり、ただでさえ忙しい教員にまた新たな「雑用」が出現することになりムダである、2) 学内の評価者が評価を行うことが基本となるので、同じ分野の専門家による評価、Peer Reviewが困難である、3) 学内の評価者では、被評価者とのConflict of Interestを排除するのが困難である、というような深刻な問題が発生してしまいます。
「安定した基盤的科学研究費」であれば、大学での内部的な評価を行う必要を省くことができ効率的なだけでなく、近い分野で、比較的Conflict of Interestの少ない専門家たちによるPeer Reviewがなされますので質的にも高い評価がなされることが期待できます。

3. 「天下り問題」、「文科省もうで」などの弊害の助長

基盤的研究費を増やす目的で運営費交付金を増加させるとすれば、国はどのような基準で運営費交付金を各大学に分配するのでしょうか。教員一人あたり一律の額を定め、それに教員数をかけた分を上乗せする、という方法はありえますが、そのような方法に対しては研究成果の多い研究者や、上位の大学は異論を唱えるでしょう。そうでない選択肢としては、大学毎に評価を行い、その評価にもとづいて、運営費交付金を傾斜配分することになるでしょう。実際、これが現在、行われていることであり、「指定大学制度」、「特定研究大学制度」のようなものもその流れにあるものでしょう。この方法には、大学を評価するにはどうすればよいのか、という重大な問題が存在しているわけです。そもそも大学という多様な評価軸で評価されるべき巨大な組織を評価し、一次元の数値(運営費交付金)に変換しようというところにムリがあります。そして、この評価は、どうしても国あるいは文科省が行わざるを得ないので、そこに権力が集中してしまうのです。ですので、当然、大学としては文科省との政治的結びつきを強化するモチベーションが高くなります。「文科省もうで」や、「天下り受け入れ」を行う大学のほうが評価に有利になる、あるいは有利になると認識されるのは当然です。科学や学術とは無関係のムダな政治的雑用が研究教育を圧迫することになり、それが実際に現在、生じていることなのです。
「多様な評価軸で評価されるべきなのであれば、評価軸ごとに機関向け競争的資金を立ち上げればよいではないか」と思われるかもしれません。しかし、「スーパーグローバルなんとか」のような機関向け競争的資金にしても同じことか、むしろさらに大きな弊害が想定されます(そのための申請・評価作業がムダ)。 というよりも、その弊害が、大学教員の貴重な時間と労力をまさに現在奪っているのではないでしょうか。
「安定した基盤的科学研究費」であれば、大学を評価するような必要がそもそもありません。「安定した基盤的科学研究費」についてくる間接経費が大学の主要な収入源の一つになりますので、個々の研究者が成果を挙げやすい環境を整備しようという大学のモチベーションが高くなり、大学はそこにフォーカスするようになります。そもそもそのような環境整備こそが、大学が本来行うべき最も主要な仕事の一つなのです。現在、環境整備に割かれるべき労力・時間が、ムダな評価作業、文科省関連の政治的雑用などに費やされてしまっているのです。良い環境が整備された大学には自然に良い研究者が集まるようになるし、特定の分野に力を入れる大学には自然にその分野のトップの研究者が集まってくるでしょう。それが、米国の大学で生じている現象です。研究はあくまでも個々の研究者が行うものであり、大学が行うものではないのです。トップ大学で論文をほとんど出していない人もいますし、地方の小規模大学で世界的にトップレベルの研究を行っている人もいるのです。そのあたりをぜひご理解いただきたいところです。

4. 私立・公立大学の研究者を忘れない!

日本の研究者の絶対数としては、国立大学より、私立大学と公立大学をあわせたほうが多いということを忘れないでいただきたいところです。基盤的研究費を増やす目的で国立大学の運営費交付金を増加させる、ということであれば不公平です。私立大学に職を得た研究適性の高い研究者も当然多数いるわけであり、そのような研究者にも公平に道は開かれるべきです。そのような私立・公立大学の研究者の研究力を活用しない手はないのです。かく言う私自身も、私立大学の教員であります。
「安定した基盤的科学研究費」であれば、国公私立、無関係に、個々の研究者の評価により安定した基盤的研究費が分配されることになります。言うまでもありませんが、その恩恵は、私立・公立大学のみならず、国公立の大学、研究所などのまっとうな研究者のほとんどが受けることになります。

以上のように、過度の集中を緩和し、基盤的研究費の比率を増やしてもらえるのであれば、それは科研費の仕組みをベースにすべきであると考えます。さまざまな評価の仕組みがある中で、もちろんパーフェクトであるとは言いませんが、なんだかんだいっても科研費の審査がもっとも質が高くフェアであるというのは研究者の間ではコンセンサスといって間違いはないと思います。
研究者のエネルギーは、研究・教育そのものに集中して注がれるべきなのです。評価は、質の高い一次評価(科研費審査)をベースにし、それ以外の評価はムダなのでできるだけ省くべし。
一回の競争で莫大なムダが生じること(不採択の申請はすべてムダになる)を強く認識し、競争回数はミニマムにすべし。
そういう原則的な考え方が重要ではないかと思います。

宮川 剛

上記の意見は、筆者個人のものであり、その所属とは無関係です。また、ガチ議論スタッフの意見を代表するものでもありません。

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“基盤的研究費は「安定した科研費」の仕組みで” への8件のフィードバック

  1. Satoshi Tanaka より:

    国立大学では教員あたり100万円/年を下回る研究室が多いわけですが、学生や院生がそこに10名程度所属していると年間10万円を切るわけです。これで教育と研究も進めなければいけないという状況です。過去の競争的資金へのシフトの議論では、研究者にもっと厳しい競争をさせれば良い成果が出るという期待ばかりで、それが人材育成に深刻なダメージを与えることへの指摘はありませんでした。論者の中には、そういう可能性に気付いていない方もいたのではないかと想像します。

    また、研究者が入院したり、精神的な疲弊が理由で、一旦研究活動の低下が起こると、リカバリーが難しいです。研究費獲得サイクルから外れると、そのラボは死に体となって実験科学の教育の場がひとつ失われます。研究成果の伸び悩み(あるいは減少)が指摘されて久しいですが、ゾンビ状態の研究室に向き合わないことには改善は難しいと思います。私自身は再度資金を配分してゾンビ状態から復活という流れを期待しますが、同じ大学内であっても「ダメ教員」への嫌悪感は強いものがあり、簡単な話ではないかもしれません。

  2. Satoshi Tanaka より:

    研究費の集中の是正が必要であること、および宮川先生のプランが研究費の配分方法として優れていることについては、ぽととさんと私はほとんど同じ意見であるように思います。宮川案が政策決定者のみなさまにどのように認識されているのか、修正すべき点はどこなのかといった次の段階の議論が始まることを期待しています。

    二点目の問いかけはなかなか難しいところで、うまく説明できる自信がありません。

    まず、研究成果とは何かなのですが、トップジャーナルに掲載されることと定義すれば、成果が出ていないラボでも育成は可能と言えるでしょう。一方で、論文が出ていないラボは、ぽととさんの仰るように論外です。優れた手技を持っていても論文が書けなければ研究者ではありません。ひとつの論文として成果をまとめて、査読の過程を経て、修正稿が採択されるまでがひとつのサイクルですから、これが不完全なままでは研究者育成とはいえないでしょう。

    一方で研究者育成の訓練は、研究者として身を立てる予定がない学生にも有効です。問題解決能力というのは些か手垢がついた言葉になりましたが、良いメンターのもとで自らの課題をもって研究に取り組むことは、費用はかかりますが、効果的な人材育成です。この場合、論文という成果にたどり着かないとしても、学生の姿勢の変化を促すという点で十分教育効果はあると思います。

    人材育成の問題が難しいのは、一流誌に業績はあるが論文は書けないという研究者が珍しくないということです。PIになっても海外のボスに修正してもらっている例や、教授になったとたんに論文がでないケースなど、気がついている方も多いと思います。人事が悪いという見方はありますが、誰が論文を書いているのかという問題はラボに近い人間しか分からないので、第三者には評価の難しいところです。「研究成果」で判断という場合に私が引っかかるのはこうした事例があるからです。こうしたPIは当然ですが人材育成もできません。

    こうした奇妙なPIが存在するのは、研究者評価の数値化が過度であることの弊害ではないかと思います。主観的な判断は誤りやすく、依怙贔屓の問題なども発生しやすいです。そこで、私は以前にプロセスの透明性を高めることを提案しました。人的な判断をする場合は、十分に説明責任を果たし、失敗例は客観的に検証するということです。少々脱線しました。ご容赦ください。

  3. ぽとと より:

    研究成果の評価にも課題はありますが、教育成果の評価はさらに困難です。だからといって1-4を区別せずに無差別に基盤的研究費を配分するのであれば、宮川先生の批判する、常勤教員の既得権益の保護になってしまいます。

    現状の研究費の集中は過度であるとの印象は持っています。宮川先生の案でのカテゴリーごとの研究費配分の傾斜を決める際には、NIHのようなエビデンスベースの政策決定が必要ですし、そうすれば過度の集中は解消される方向に向かうと予想します。
    また、堅実な成果を出していながら突然研究費が激減してラボが維持できなくなる、という問題の解消は、宮川先生の案の主眼の一つです。

    ところで、田中先生は研究者育成を念頭に置いて教育を議論されているようですが、その場合、研究成果を出せていないラボで研究者育成は可能なのでしょうか。研究者の育成は、研究成果が生み出される場に身を置いて、研究成果を生み出すプロセスを実体験することによって行われるものであって、成果が出ない場で実験手技のみを鍛えても、研究者育成にはなっていないのではないでしょうか。また、在学中に研究成果を残せないまま学生が卒業している状況は、研究者を育成できていると言えるのでしょうか。

  4. Satoshi Tanaka より:

    ぽととさん、またお相手いただけることに感謝します。イベントがないとどうしても書き込みは低調になってしまいます。

    1)と3)の区別は難しいというのが私の意見です。研究成果をどう評価するかは永遠の課題ですが、現状はインパクトファクター重視、研究費獲得実績重視であり、過度の集中が起こっているせいで、教育環境が損なわれています。1)は立派なラボなのですが、ひとつのラボが育成できる研究者の数は限られています。10倍の予算がつけば10倍の研究者が巣立つというわけにはいかないので、むしろ10の独立したラボが個々に研究者育成に当たる方が、人材育成の面では効率的です。

    私が研究不正の問題に注目している理由の一つは、不正が成果の評価に悪影響を及ぼすことで、結果として3)のグループに分類されるラボが増えるからです。自分が観測した範囲の話になりますが、堅実に成果は出しているのに研究費が激減して、結局堂々たる3)になるという経緯をたどるところが増えています。3)のラボの研究費をさらにしぼると、実験科学の領域では自ずと4)になります。いくら研究者として素晴らしい発言をしても、学生に実験の機会を与えられないようでは指導者ではないからです。

    現在の評価基準では1)の数が少なすぎるので、いずれ研究コミュニティとしては成立しなくなることを恐れています。既にそういう予兆があるのではないでしょうか。2)は研究所等、比較的若手に影響しない場に異動されるようなモチベーションがあると良いですね。

  5. Satoshi Tanaka より:

    まさに国立大学で進行していることですが、実験科学の看板を掲げているのに実際にはその教育に必要な研究費を獲得できていない場合、社会から期待されている教育の責務を果たしていないということになります。実験しない実験科学というのはおかしいので、廃止するか、方向転換しなければいけません。

    科研費をベースにして提案のような改革が行われた場合に、「研究しない教員」を放置することはできませんので、その分は時間をかけて縮小するのか、あるいはアメリカのように研究者+サポートという組織に再編成していくのかという議論も必要ではないかと思います。

  6. TIK より:

    成果があってもブラックな人は追い出して欲しい。本当に。

  7. KOJO より:

    >研究成果をほとんど出されていない方々が貴重な常勤ポジションを専有し

    こういう輩を常勤ポジションから追い出せなければダメなんじゃないですかね。そもそもやる気がないなら論外、やる気はあるけど雑用がーていう人は、雑用の処理能力がないという点でもっとタチが悪い。

  8. Satoshi Tanaka より:

    「河野太郎の大学の悩み聞きます」(東大五月祭)のまとめがTogetterにあがっています。主催の瀧本さんもこれからフォローアップされるとのことで、こちらも注目でしょう。
    https://togetter.com/li/1112528

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