2015.11.05 トピックス
地方大のあり方について
大学に要請される研究のあり方とはどんなものなのでしょう。アカデミアに加えて、研究所や企業で研究に従事する若手研究者を供給するという役割はすぐに思い浮かびますが、実際にはそうした「研究志向」の進路はライフサイエンスでは特に限られており、多くの卒業生はそれ以外の世界で活躍しています。前者については熱い議論が起こりますが、後者の人材育成の社会的な価値を議論することも重要です。
「研究志向」の人材育成:
ノーベル賞受賞者の出身大学のことがニュースにも取り上げられましたが、優れた研究者の経歴はしばしば複線的です。また、ビッグラボを支える番頭さん格の研究者の出身を調べれば、優れた研究活動に必要なものはそれを支える裾野の広さであることは容易に理解できます。特に大きな予算が当たるわけでもない地味なラボで、研究者の訓練が丁寧に行われているということはもっと主張すべきです。
「研究志向」ではない人材育成:
国家が大学を支援する意義は、研究志向の人材が必要だからという理由だけではないです。AIDSは先進国の陰謀であるから治療薬は輸入しないとか、主要な感染症に対する予防接種を個人の判断に委ねるといった愚かな判断に陥らないためにも、国民の教育水準は高くあるべきです。目に見えない形であることが多いですが、高等教育は国家の財政に貢献をしています。自然科学の研究室では、専門家の指導の下、学生がテーマをもって試行錯誤するという、問題解決能力を醸成する上では最適の環境が与えられます。国家の財政が厳しいときにはこうした贅沢な教育方策は限定せざるを得ないかも知れません。しかし、現場の問題解決能力が高いことが日本の強みという分析もあります。我が国は「人で勝負」という意見は広く共有されています。国家が大学を支援する根拠はこうした点にもあるはずです。
基礎研究の多様性の確保、高等教育を受ける機会の増大という目標は、産業界から直接的な支援を受けることは困難ですが、いずれも国益に資するものです。地方国立大学はその担い手として国の投資の対象となるべきというのが私の意見です。実験科学の教育が可能な環境を取り戻すことが大事です。アンケートにある反対意見に対していくつか反論してみます。
・若年人口減少を受けて、国立大学も適正規模に縮小すべきだろう。
→シュリンクする中でも国家として何を重視するべきかという判断は重要です。人口に比例して高等教育をスケールダウンするのは愚策ではないでしょうか。
・意欲のない教員が多いので投資する価値がない。
→豊田先生の調査にあるように、必ずしも費用対効果のパフォーマンスは悪くないという見方もあります。個々の研究者に対する適正な評価が必要とされているように思います。大学数を減らすのではなく、再生するためのアイデアを考えたいです。予算の少ない中、教育、研究の両方に追われるという立場を離れることで新たな能力を発揮する人材もあるはずです。
・基礎研究や人材育成は研究開発法人でもやれば良い。
→何でも研究開発法人が請け負うと、大学との機能分化のメリットがなくなってしまいます。また、人材育成のノウハウを新たに別のシステムで蓄積していくことは非効率ではないでしょうか。
地方大学縮小派の方からの反論、あるいはこのトピックに対するご意見をお待ちしております。
岡山大学 田中智之
(この意見は筆者が所属する組織の意見を反映しているものではありません)
*関連するアンケート意見をピックアップしました。
「地方国立大学は負のスパイラルに入っていてどうしようもない(抜本的に改革せよ)」
・国が科学研究、教育に対する出資を削っているため。特に地方国立大学は厳しい。
・日本の研究者、とくに地方の研究者と話すと研究への意欲が欠けているように思われ、問題の最たるものだと感じる。
・地方大学にやる気がなく,仕事をしない(研究をしない)教員が多いこと。そういう仕事をしない教員が研究スペースだけは確保していたりする。こういう教員を全て教育に回して,研究できる元気のある若手にスペースとチャンスを与えれば良い。
・地方大学では研究自体を上位に考えない教員や学生も多く、まじめにやっていても、寂しい気がします。
・地方大学は、基幹大学に入りそびれた学生が集まる。そういう学生の大半は諦める気分で気概がない。おまけに、地方大学には資金もない(一部は赤字経営)上に研究施設も不十分で、アイデアがあっても実験出来ないので結局、学生も職員も諦めムードで悪循環に陥っている。
・地方を若手のカルチベーション施設として利用すれば,論文数も増えると思う。
「地方国立大学へのてこ入れは日本のサイエンスに必要(支援強化こそ必要)」
・地方国立大学の衰退。それにともない、教育を受けた学生を供給できなくなっている現状。
・地方大学においてはマンパワーの量的不足と質的欠損。
・旧帝大の著名な研究者の人は、「地方大や私立大で研究ができない状況になれば、自分の教え子のほとんどはアカデミックの研究者になれない」ということを再度認識し、日本全体の将来を見てほしい。
・地方大学における質の良い研究者のポストの維持。
・政府が地方大学の現状をしっかり把握する。
・国立大学だけではなく(旧帝?)、地方大学、私立大学にも行き渡るような様々なタイプの助成金を用意し、学生が研究に打ち込める環境を国が整えるべきである。
・地方大学の研究をもっと活性化させる(職業訓練大学にする、みたいなバカな政策はやめてほしい)。
・地方大学の研究環境の改善などそうだと思います。旧帝大と地方の国立大学の研究レベルの差はかなり大きい。アメリカだと地方大でも優秀なところはかなり優秀です。
・裾野を形成する研究計画、予算配分の完全な欠如。
・一極化するのではなく、地方も含めた国立大学への支援を強化
・東大・京大以外の地方大学に、まずいい指導者誘致の予算や設備を配置してください。魅力あるPIには、地方であってもいい若手研究者が集まってきます。
*コメント欄では「I’d rather post as guest」をチェックいただくと、登録なしでゲストとして投稿ができます。
コメントを新着順に表示させるため
コメントはできるだけ下のボックスからご入力ください。
当事者として、本当に難しい問題だと感じます。ぽととさんの仰ることにも賛同しています。ただ、大学は少なくとも教育機関ではあるので、多様な講義を展開する必要があります。その為には、それなりに幅広い研究教育分野を専門にしておられる教員が必要です。しかしながら、現在の予算状況ではその多様な先生の全てが十分に研究を出来る状況にはありません。しかしながら、教育の中には卒業研究などもあるわけで、このままでは、この先学生が思うような卒業研究が出来なくなる、つまり、大学の体をなさなくなるのでは?とも思えてしまいます。言い換えると、大学の体をなすためにも最低限の資金(卒業研究が行えるほどの)は必要なのではと思うのです。それなら、「研究」は「大学院」がやることにして、「旧帝大」だけに大学院を置けばよいという考え方もあるのかもしれません。もしかしたら、これからそういう方向に向かうのかも知れません。ただ私自身、卒業研究などを通じて感じるのは、研究を通じた学生の成長(論理的思考力や研究の成功による自己肯定感や自信の醸成)です。そしてそのような成長を遂げたものは、やはり良き就職先が決まったりするものです。そういう学生をみると、地方国立の、もともとさしてレベルの高くない学生であっても、やはり卒業研究は「教育」として価値があるということを強く実感します。なんだかレベルの低い話かもしれませんが、当事者としてはやはり学生が必要とする教育研究はさせてあげるべきだし、それが出来る人材(教員)を確保・維持するためにも、この様な予算状況は変えていって欲しいと願ってやみません。
私は当事者でもあるので誤解しやすい傾向があるようです。申し訳ありません。ぽととさんの真意を理解いたしました。
別のトピックでも議論がありますが、ある種のロビー活動に長けていることで競争を免れているようなケースがあることは事実で、フラットに評価ができれば豊田先生のレポートを反映するような資源配分になる(即ち、今よりは配分額が増える)と予想しています。
懸念するのは、10年以上継続して予算が減額されているために、大型共通機器の更新といった、研究環境の整備ができなくなってきていることです。このままでは、魅力ある研究者を地方に配置するといったアイデアも活かすことができませんし、豊田先生のレポートのようなパフォーマンスを今後も示すことができるのか、危ぶまれる事態になっています。
一点だけ補足させて下さい。
地方大学の保護を「美名」と書いたのは、地方大学は不要な存在という意味ではなく、保護の対象というよりむしろ競争力を持ち自立した教育研究機関であるはず(と期待している)という意味です。
誤解を与える表現ですみませんでした。
クリアに整理していただいて感謝申し上げます。ぽととさんの分析されている通り、大学経営は合理的に動いていると思います。大学は高等教育機関として位置づけられているので、その本義に立ち返れば、開店休業ラボは閉鎖して、同時に大学院の定員も予算に見合った形に絞らないといけないです。しかし、経営を合理的に最適化した答えが学生数削減というのは倒錯した状態だと思います。
豊田先生のレポートには地方大学とともに、教育機関ではない研究法人のデータも出てきます。パフォーマンスの適切な測定は難しいことではありますが、全体として果たして今の研究資金のバランスは適正なのかという議論が必要ではないかと思います。10億円のプロジェクトと1,000万円のものを個別に比較するなどという評価方法の誤りがなければ、ぽととさんの仰るようにどちらがパフォーマンスが高いかを比較して競争的にやってみてはどうかと思います。
地方大学の保護が美名というのはちょっと厳しいご意見ですが、例えば植民地時代に宗主国が現地に大学を設立するか、あるいは本国に現地エリートを呼び寄せるかという違いは、独立後の国の成り立ちに大きな影響を与えている(前者の国の方がおおむね健全に発展している)という話を聞いたことがあります。教育効果は、対象となる期間が長く、影響も複雑なので、評価が難しいです。その国で教育がどれくらい大事なものとして認識されているかということで決まるのかも知れません。
地方大学に限らずどこの国立大学でも資金繰りに窮しているので、収入を得ることは経営の最優先課題です。そのために限りある経営資源は有効活用しなければいけません。文科省のプロジェクトは収入に直接関係しているので、その実施には最優先で経営資源が投入されます。一方で、ラボを開店休業状態にしておいても運営費交付金が減るわけではないし、講座費を多少付けたところでそのラボが外部資金を取れなければ収入には繋がらないので、講座費の充実は後回しです。大学経営陣は結構合目的的に動いているのです。
この状態を反転させるための政策は、研究と教育という大学の機能をちゃんと評価したうえで収入と連動させることにより、大学本来の責務を果たすことを経営上の最優先課題にすることと、文科省の意味不明な改革プロジェクトは全廃し、その予算は全て運営費交付金の成果連動部分に上積みすることでしょう。
そんなことをしたら地方大学は潰れてしまう、だから運営費交付金を競争的にしてはいけないという主張もあります。実際に地方大学が潰れてしまうのかどうかは、自分で実際に推算をしたわけではないので分かりません(評価基準がないと推算のしようもありませんし)。しかしもし例えば豊田先生が主張されているように、地方大学がコストパフォーマンスの高い研究機関であるならば、パフォーマンスに連動した地方大学の収入は今よりも増額されるはずです。その場合、過度の選択と集中を受けて予算を浪費している機関の収入が減額されることになります。地方大学の保護という美名を隠れ蓑にして、そのような機関が評価を免れているなんてことは、容認されるべきではないでしょう。
ご指摘は全くその通りで、地方大学の状況は貧すれば鈍するという言葉を想起させます。実験科学を標榜しながら、実態は予算不足で全く実験ができないという状況では、国立大学の責務を果たしていないと思います。末端の教員は真面目な方ほど、この状況に苦しんでいると思います。こうした状況は時折報道もされるのですが、改善の動きはありませんでした。運営費交付金削減は地方大学を減らす上での過渡的措置と考える人も多いのですが、実際の教育の場では開店休業状態のラボに配属される学生がいることも知っていただきたいと思います。
文科省は財務省から予算を獲得するために、何か特色を打ち出す必要があるということなのですが、地方大学ではそうした打ち上げ花火に付き合うことでどんどん疲弊しています。交付金の振り分けはそれぞれの大学の裁量というのが建前なのですが、だからといって個々の研究ユニットに手厚く配分することが可能かというとそういう余裕はないわけです。
ここでは、高等教育の規模、基礎研究の多様性を維持することをあわせて議論しようと試みていますが、風当たりが強いですね。研究コミュニティという観点からは、重要な論点のひとつだと思いますが…
仰るとおりですが、採用や人材育成について試行錯誤が行われる中、研究人材育成の手法にも関心が持たれているということに注目しました。三井物産の事例では、よく仕事ができる人材の中に博士がいたことから、ひとつの可能性として注目しているようです。研究人材育成の方法がオールマイティだという主張ではないです。博士人材はおおむね役に立たない(研究人材の育成は社会には貢献しない)という結論に至るほどの実例はまだ蓄積されていないと思います。
いや、企業だって研究職はありますが、研究ができるから営業や企画や人事もできるわけではないんで、あまり意味がない主張だと思います。
地方国立が疲弊しているのは、もちろん、運営費交付金が減っていることが大きいのですが、それだけではなく、文科省の方針に沿うための運営をボードが行おうとするあまり、特定のプロジェクト(外国人講師を多数雇った英語教育や、県の試験場とのコラボ、ベンチャーを起こすためのプロジェクトなど)へと予算を吸い上げてしまうことも大きな問題です。結果、バイオ系であっても教授の基盤研究費は年間12万、准教授は1桁という有り様です。この予算で研究からコピー用紙に至るまで全てを賄わなければなりません。そのため研究をするためには競争的資金を獲得することが必須です。そこで、私は運営費交付金をある程度紐付き(教育費、研究費、人件費等の枠をつける)にして、あくまでその枠の中で大学の裁量によって運営すべきではないかと思います。そうしないと本当の意味での基礎研究も滞るばかりか、教育機関として、まっとうな卒業研究をさせることができず、正に負のスパイラルに陥ってしまうのではないかと思います。
コンサルタントの方が「ロジカルシンキング」という言葉を流行させたのは確かに戦略的な問題であり、ご指摘のようにそれほど重要なことではありません。ロジカルシンキングを研究室で教えますよという話であれば、脱力されても仕方ありませんが、そういうことを申し上げたいわけでありません。ひとつの例示、導入とお考えいただけると良いと思います。
企業人の問題意識は、より本質的なことで、複雑な問題に論理的な考え方をもって粘り強く取り組む人材をどう育成するかにあると思います。単純化して部分的に解決するというアプローチの浅薄さにはみなさんお気づきでしょう。さて、ではそういう人材育成の良い方法があるのかということを考えた場合、研究者の訓練というのはそれなりに有効ではないかと考えます。上に三井物産の事例をあげましたが、こうした試みがあるのは、博士人材に期待するという向きもある(One of themではありますが)ということだと思います。
OJTで果たして粘り強く思考する力はつくのか、大学で一旦社会から隔離された環境で研究する方が良いのではないかという議論はいかがでしょうか?また、そういう人材育成は果たしてどれくらいの規模で国が支援するのが適切なのかという観点もあるでしょう。RABBITAAさんはどうお考えになりますか?
現在の多くの企業人は、今さらロジカルシンキングを挙げられても脱力すると思います。数年前にコンサルがPRのために流行らせたものですが、どっちかといえばプレゼン上のディフェンスのテクニックであって、生産性を上げるようなものではないというのが現在の感覚です。むしろ官僚の方などはとても得意だと思いますが。
どんどんタイトルとずれてしまいますが、人材育成、博士人材の活用という観点から以下の記事を紹介いたします。
「三井物産、異例の博士課程採用スタート!文理不問、専門性も不問…採用担当者が語る「考え方の多様性」とは」
http://news.livedoor.com/article/detail/10832742/
(引用)
これはあくまで仮定で、理系での話ですが、学部生は実験のテーマを与えられ、さらに実験のや り方や内容も全部指示されてそれで実験して結果だけをまとめるものだとすれば、おそらく修士はそれよりも一歩自由度が高くて、仮説を立てるところから実験 方法の組み立てまで任される、それによって任されるフィールドが増え、自分で考える力もより深さを求められるということになると考えます。
(中略)
修士よりもより幅が広く、そもそもテーマ設定から自分で考えていかなくちゃいけない環境の中 にあって、つまり白紙のカンバスのような、今自分がいる学術領域の中で何が次のテーマになり得るのか、ということから設定し、知的な生産を行ってきた人は それなりの能力を持っているだろうということに期待しています。そういう人こそが、新しいことにチャレンジし続け、今世の中にない仕事をいかに作っていく かというミッションを背負ってくれる人物に合致すると考えているのです。
(中略)
私たちがこれまで積極的にはカバーしていなかった領域で、これまでとことん突き詰めて頭を使ってきた人たちは多様性の観点からも面白いのではないかと。こう思うんです。
(中略)
博士課程というクローズドな世界でホンモノを極めてきた人たちはやっぱり面白いんじゃなかろうかと思いますね。
(引用ここまで)
三井物産の採用担当者のコメントなのですが、博士課程における本来の教育のあり方を見据えたご意見で、社会にはこうした見方もあるという実例になると思います。こうした期待に応えるような人材育成を、研究活動を進める中で行うことが大切だと思います。ここで取り上げられている「学部生」レベルの博士が存在しているということが問題ですが、切り分けて考えていく必要があると思います。
前者では中国の経済成長は高等教育とは必ずしも連関しないということを取り上げています。また、教育に力を入れている途上国の経済が伸び悩んでいることも取り上げられています。高等教育への選択的な投資は、若年層以外の生産性向上の機会を損なっているのかもという話も出てきます。教育偏重へのカウンターとして興味深いものでした。ご紹介いただき、ありがとうございます。
取り上げられている中国自身も科学研究や高等教育の投資を拡大している理由はどう分析されるのか、また筆者が教育の効果を測るスパンが比較的短いことが気になりました。また、高等教育偏重をやめてミドルからシニアにどう投資すれば良いのかという具体策が提示されていないので、方針がはっきりしないのであれば若い人に投資するべきではないかと考えてしまいます。
後者は本文からはHigher education is not a public good.と結論して良いのか判断できませんでした。背景の資料を読み込まないといけないですね。既に述べましたが、容易に数えられるものだけを数量化して評価するという危険を冒しているのではという印象を持ちました。個人の利得は調べやすいですが、公共財的なものの価値は測定しにくいです。
ご提案のシステムは、研究活動の質の向上という意味で簡潔で良いですね。学部と独立した大学院のレベルで選別がはたらくことは、質の向上に向けて望ましいことだと思います。国立セクターでは学部教育を廃止するとしても、研究サイクルを回すために研究人材育成という役割は残ります。研究者育成のシステムを利用して、高い問題解決能力をもつ人材を研究領域以外にも輩出することも目標に加えると良いと思いました。
最近は大学院においてもコースワークが盛んに奨励されていますが、学部教育が座学的なもののみで完結してしまうと、自然科学教育のダイナミズムが欠落してしまうのではという懸念を持っています。自分で仮説を立て、実験的に検証するという実験科学のプロセスから学べることは多いので、そういう機会はできるだけ多くの学生に向けて維持していただきたいと考えます。
お返事ありがとうございます。
http://www.project-syndicate.org/commentary/education-economic-growth-by-ricardo-hausmann-2015-05
http://blogs.worldbank.org/education/higher-education-returns-are-high-we-need-fund-it-better
こういうのを読みますと教育には生産性を上げる効果は薄く
また私的な収益率が高い為に個人的には税を投じる
意義があるか?と云いますと疑問を感じます。
研究の方ですと国立セクターは現在より集約化、大規模化させ
学部教育は廃止し研究に特化
雑用業務なども専用の職員を雇い原則しなくて良いようにする
また費用分配も前述した通り
現在の結果が出てる物に重点的に配るのではなく
悪平等に配るようにする。
学部教育は各都道府県に公立大を整備し
公立と私立に任せるのはどうでしょう?
どこまで具体性があるかは分かりませんが…
集約化というのは研究のみならず国の課題ですから、大学もその対象から免れないということですが、もちろんそれには同意いたします。
うまく説明できていないのですが、小さな研究ユニットの存在意義をもう少し研究者も主張してはどうかと考えています。ひとつは、基礎研究の多様性を維持するため、もうひとつは問題解決能力をもった社会が必要とする人材を供給するためです。残念ながら、無償の使い捨て戦力として大学院生を受け入れた教員が無視できない数存在するために説得力をもった議論になり得ないのですが、人材育成システムとして研究室はそれなりに有力な手法です。就職活動や企業におけるロジカルシンキングの研修の内容を知ると、普段研究室で指導していることとよく似ていることに多くの研究者は脱力すると思います。今、社会が必要としている人材の優れた育成方法に通じているにも関わらず、研究のことしか眼中にないというのは些かもったいないように感じます。良い研究室から輩出された人材はアカデミアでも産業界でも活躍しています。
高等教育への投資が国家の生産性を上げるというエビデンスは私も持ち合わせていません。一方、我が国でセーブできているコストはもしかしたら高等教育に由来しているのではないかと考えています。少し古い話題ですが、製造業における「カイゼン」に代表されるボトムアップのシステムは構成員、そしてそのリーダーがある程度の高さの教育水準に達していないとうまく機能しません。「一握りのリーダー+何も考えない部下」という構造を前提とした欧米方式を模倣するのは我が国の特性を活かしていないのではないでしょうか。教育には投資しない、エリートは私費で自分の能力を高めるべき、という財務省から出てくる意見は、無理に欧米型に持っていこうとしていて、むしろ日本の特性を殺しているのではないかと思います。
「地方大」というトピックにしたために、注目度が下がってしまい残念ですが、研究環境をめぐる様々な問題とリンクするところではないかと考えております。
割り込み失礼します。
高等教育への投資が国家の生産性を上げるというエビデンスはあるのでしょうか?
自分が知る限りですがあまり関係無いと思います。
国が投資する必要性があるという点だと研究の点ですね。
ただこちらも人口減少し
またその減り方も都市部では高齢者は増えるが人口は地方ほど
減らず地方では自治体の維持が危ういくらい減る所も多いので
インフラなども含め都市部への集約化が必要かと思います。
その際には現行の集中的な投資ではなく集約化した大学へ
悪平等に配るのが良いかと
ピッツバーグの例は私の所属する大学でも話題になりました。アメリカの州は国からの独立度が高いところが大きな違いですね。神戸理研もアメリカの例と比較すると国のプロジェクトにしか見えないです。
地方大学は慢性的に予算が欠乏しているので、少しでも運営費を獲得するために文科省の計画には一所懸命に手を上げざるを得ないです。そういう状況がユニークな取り組みができない背景にあります。大学自身がものを考えたことがないのでは?と感じるくらい縛られています。
別の場所で議論になっていましたが、やはりどの程度を重点化するかという問題を別途考えないといけないと思います。社会のニーズを考慮に入れた重点化というのはある程度は必要で、これまでもそうした考えに基づいて重点領域が定められてきたと思います。一方で、基礎研究に限定した議論であれば、ライフサイエンスに偏重する理由はないと思います。もし不自然な重点化があれば、是非批判して欲しいです。そうでないとこの問題は研究者同士の諍いになってしまいます。
別の見方をすると、社会のニーズから来た重点化(本来は出口志向)の余得で潤っている基礎研究分野を批判できるか?ということになるでしょうか。JSTやAMEDは戦略的に基礎研究も支援することになっていますが、本当にそれは当たっているのか、そもそも基礎研究を対象に戦略など立てられるのかという疑問は私自身は持っています。戦略的な集中よりはばらまきの方が実り豊かではないだろうかという疑問を持っています。
たとえば基礎研究に選択と集中はなじまないという話になった時、では分子生物学会はライフの重点化を批判できるのか、というと難しいのではないでしょうか。それができるなら本物の議論になるでしょうけれども。
ライフサイエンスは国だけではなく民間からの資金も流入しており、偏重という指摘を受けることは間違いないでしょう。一方で、基礎研究に限れば、ライフサイエンスだからといって余裕があるかというと、必ずしもそうではないです。他分野との合流が難しいほど環境に違いがあるとは思わないのですが、いかがでしょうか。少し別のテーマへと議論が向かっているかも知れませんが。
他分野を交えた場合、ライフサイエンス自体が重点化領域であり、選択と集中によって厚遇されているという点を指摘されることと思います。
同じように研究の裾野の問題などを憂慮されている分野はたくさんあると思います。以前、ここの掲示板でも日本版AAASの提案がありましたが、そうした動きにつなげていくことも大変意義があると思います。
おっしゃる通り、これは気になっている点です。
科学、学問、サイエンスと銘打つ割にここではバイオ系の議論しかありません。学会的に仕方ないのかもしれませんが、理系文系他分野の方も交えて議論する必要があると思います。
成功例としてはよくピッツバーグが挙げられますね。
http://www.nikkei.com/article/DGKDZO69099250Z20C14A3TY9000/
ただしこれを模したかに見えた神戸理研があの状況なので、残念ながらライフサイエンスでの追随には失敗したと見ざるを得ませんが。
国立大学の三分類の際に議論になっていましたが、地方のためのサイエンスというのが基礎研究で成立するのだろうかという疑問があります。サイエンスの成果が地方に貢献するという方向は理解できるのですが、地方の振興を目標とするサイエンスとはどのようなものなのかイメージが湧きませんでした。アンケートで州立大の例を挙げていらっしゃった方に、少し書き込んでいただけると有り難いのですが…
地方大学のライフサイエンスというごく狭いカテゴリーを擁護するのはなかなか難しいと思います。記事は、研究では多様性と裾野の広がりが大事であり、それを実現する上で地方大学には役割があるのではという論旨です。人材育成は別の領域でも同じ価値を提供できるというご意見は同意いたします。
一方で、研究領域の重み付けは個々の研究者の選択の結果、ゆるやかに変化する方が良いと思います。現在需要の大きな分野をトップダウンで強化することは、長期的にはあまり良い戦略ではないと思います。
研究を通じて問題解決能力を醸成する、科学的思考力と科学リテラシーを持った人材を社会に送り出す、という理由だけでは、地方大学で特に「ライフサイエンス」の研究を行うべき根拠にはならないかと思います。
例えば機械工学や電気工学、計算機科学の研究であっても上記の目的は達成できますので、これらの人材需要が大きな分野の教育を強化した方が、卒業生のキャリアパスの観点からも、産業振興の観点からもメリットがあるのではないか、その結果として地方大学のライフサイエンス研究が相対的に縮小してもやむを得ないのではないか、という主張に対して反論できるでしょうか。
たしかにアメリカには存在感のある州立大は多いですが、国というよりは州によるところが大きいのでは?結局地方大も地方の振興を真面目に考えないと、地方の衰退とパラレルなのではないかと思いますが。
少子化ですし、「大学院の定員の見直し」は必須ですね。さらに、(米国のように)ある程度の給与を研究費から支払うことのできる教員しか、院生をとれないようにすることが大事なのではないでしょうか。
これを可能にするためにはやはり安定した基盤研究費をしっかり充実させることもセットにする必要はあると思います。そのような最低限の研究費が取得でるような教員こそが、「研究活動を通じた教育のもつ価値」を産み出すことができるのでは、と思います。もちろんそのための評価がより一層重要になってはくるわけですが。
「圧倒的に不足している」ことは各所で強く指摘されていますね。ここは大学教員側が強く反省すべき点だと思います。一方、基礎研究の小さなユニットが、同時に問題解決能力を高める教育ユニットでもあるという仕組みは大変優れたものだと思います。教員の意識改革や大学院の定員の見直しを含めた議論へと展開できないものかと思います。
本来は「研究活動を通じた教育のもつ価値」は極めて高いものがあると僕も思うのですが、現状では、大学院生を無料の労働力として単に消費してしまっているだけで、十分な教育がなされていない、という意見がかなりあると思います。そのあたりが解決されないと「研究活動を通じた教育のもつ価値」は十分には出てこないのではないかと思います(現状ではそのような価値は多くの場合、圧倒的に不足している、という認識が大半かと)。
社会の総意であれば減らすという選択肢もあると思います。しかし、政治家をはじめ、資源のない日本は人材で勝負だという意見を主張されることは多いです。教育は個人の利得にしか結びつかない(だから教育費は個人の負担が望ましい)という財務省の意見を読んだことがありますが、それは現在の日本がセーブできている社会コストが計算に入っていないと思います。問題解決能力に秀でた人材や、科学的な根拠をベースに議論できる人材が増えることは、国家にとって大きなプラスとして作用すると思います。企業でも、こうした人材が必要であるから、いろいろな研修が行われていると思います。大学が十全にこうした使命を果たしているかについては疑問符がつくのでしょうが、研究活動を通じた教育のもつ価値は評価されても良いと思います。まだ、主観的かと思いますので、是非ご指摘を。
ご回答ありがとうございます。我々の職業の枠を減らすな!という感情的な意見にしか見えません。良い戦略とは言えない客観的な理由が知りたいです。
「地方を若手のカルチベーション施設として利用」するということや、「魅力あるPI」を地方大に誘致するような政策をするという考え方に賛成です。
「地方大や私立大で研究ができない状況になれば、自分の教え子のほとんどはアカデミックの研究者になれない」との意見が出ていますが、海外や国内の一流研究室で成果を得た若手は、次に地方大で職を得る可能性が高いわけです。「地方大に行ったが最後、研究者すごろくあがり」では、研究者キャリアパスのシステムがサステイナブルなものになり得ないと思います。
では、単に国立大学の運営費交付金を増やし、従来型に戻せばよいかというと、さすがにそれは困難ではないかと思います。少子化問題がありますし、研究適性の高くない教員、研究のモチベーションを失ってしまった教員の問題は各方面から強く指摘されているところだからです。やはり、評価にもとづいてゆるやかに変動する「安定した基盤的研究費」を研究者個人に付与し、それにつく間接経費比率を上げて、地方大や私立大に行っても長く安定して研究できるような環境づくりをすることが有効なのではないかと思います。そういう研究費も取得できなくなった教員は、アドミニストレーター職や、教育専門職に異動してもらったり、早期退職を促したりすることとセットにすることしか、現実的には解決の方策はないのではないでしょうか。
魅力あるPIの誘致については、HHMIのinvestigatorをマネたような、CREST investigator、RIKEN investigatorなどのポジションをつくり(中型の予算がしばらく続くようなもの)、地方国立大、私大の中に、先端研究のコアとなることができるような仕組みを創ると良いのではないでしょうか。現状存在するトップダウン予算をそういうものに回すことは比較的容易にできそうな気がします。
説明が不十分でしたが、全体的な配分比率を維持したままスケールダウンするのは愚策では?という意見です。人口の減少は大きな意味で国家のスケールダウンですが、その際にはどの領域は維持してどの領域は思い切ってカットするという戦略が必要だと思います。もし、日本が先進国の一員として人材で勝負するというのであれば、高等教育についてもその他の領域と同様にイーブンにカットするのは良い戦略とは思えないです。
本来、基礎研究の小さな研究ユニットは「少人数で小さな成果をコツコツ出すスタイル」で運営されることが健全だと考えています。研究の展開によってはそれが大きくなっていくこともあって良いでしょうし、そうした場合には研究開発法人が受け皿になって次のステージに移ることもあるでしょう。JHさんが指摘されている「やる気」まんまんのPIというのは、実は研究者として適切に訓練されていない(マネージャーとしては訓練されているかも知れませんが)のだと思いますが、どうでしょうか。
人口に比例して高等教育をスケールダウンするのはなぜ愚策なのでしょうか。
非常にリーズナブルに思えるのですが。