【帰ってきた】ガチ議論
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政府による大学改革について直接お役人にきいてみた(8月7日 回答を加えました)

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前回の、ノーベル賞の量産についての私の記事に対して、文科省の斉藤卓也氏(現在は内閣府に出向中(科学技術政策担当大臣秘書官))と電話でお話をする機会がもてました。

こんどう
「えー、この間のノーベル賞の話です。科学技術基本法でノーベル賞50年で30人を目標と言っていたのに、直後から、それを上回るペースになってしまい、文科省としては、どう考えているのかな、、という。」

斉藤
「まあ、自分はその基本法にかかわっていなかったので、詳しい経緯はわかんないんですけど、当時は、欧米の先進国並みにということで。でも、内部でも、ノーベル賞の数で短絡的な目標にすることを疑問視する意見もありました。」

こんどう
「でも、結果からすると、既に日本はかなり以前から、先進国並みのレベルであったということになりますよねえ?」

斉藤
「そうですね。この間のノーベル賞はアメリカに次いで2位という事ですから。でも、ノーベル賞の対象になっているのは、かなり前の業績だから、今、日本がそのレベルであるかどうかはわからないと思います。最近、論文の質も量も、海外に比べて顕著に減っている、というデータがありますから。だから、何とかしなければいけないという意識は強く持っています。」

こんどう
「いや、だからその”改革”が問題ではないかと思うのですよ。」

斉藤
「というと?」

こんどう
「改革の基本的な考えは、大学等の研究機関に対し、恒常的に配られるお金を削減していき、浮いた分を競争的な資金とし、いろいろなプロジェクト、しかもかなり短期間のものに集中して与える、ということですよね?」

斉藤
「これまでは、だいだいそんな方針でした。」

こんどう
「でも、競争的資金を取りに行く過程で、研究者があまりにも忙しくなって疲れてしまう。大学や研究科単位で大きなお金を取りに行くときなどに駆り出されるのは、その時に成果が挙がっている人たちです。最先端で活躍しているその人たちが、全く別の予算獲得に精を出せば、当然、研究へのエフォートは減り、業績も伸び悩んでいるのではないかと。」

斉藤
「今までは確かにそうだったのですが、今後は、これまでのように、新しい制度を作って5年くらいでどんどん入れ替わる、ということにはならないと思いますよ。」

こんどう
「というと?」

斉藤
「競争的にさえすればいい、という考えはもうあまり残っていないのです。そのデメリットは、皆さんと同じように我々も感じていますので。ですから、今後の制度については、今、まさに試行錯誤中であり、それが”交付金、競争的資金の一体改革”と最近言われていることの意味です。できれば、今ほど短期間でなく、かといって無条件に恒久的でもないシステムができれば、と思ってはいるのですが。その辺で、お知恵を拝借したいというのが、対話型政策室を設置した理由でもあります。」

こんどう
「結局のところ、行政側と現場研究者が知恵を出し合って、なんとかまともな方法を作っていくしかない、ということでしょうか?」

斉藤
「ノーベル賞の件で、闇雲に欧米のシステムをまねればよい、というものでもないことはわかりました。でも、それだとお手本がないということですから、新しいシステムを創造することが必要です。ご協力よろしくおねがいします。」

・・・ここまで

何といいますか、文科省自身が、日本の科学のレベルを見誤っていたことをついて、少し非難してやろうかと思っていたのですが、なんだか、うまくかわされてしまった感じです。私の力不足もあると思います。もっと、バトルを期待してくださっていた方がいたら、申し訳ない。しかし、これまでのやり方(5年で終わってしまうプロジェクトを延々と出し続ける)に対して、内部での反省がちゃんとある、というのは少し安心しました。

さて、文科省に対する意見ですが、もっと突っ込みどころはいろいろあると思います。是非、皆さんも突っ込んでみてください。
この記事へのコメントという形でも良いし、ツイッターでつぶやいてくれてもOKです。先方がなかなか時間が取れないので、全てというわけにはいきませんが、ガチ議論スタッフが取り次いで、回答を聞いてまいります。非常に鋭いご意見に関しては、その突っ込み主とお役人の直接対決場を、学会でのガチ議論本番の中で、あるいは、それ以前に機会を作って、設定させていただきます。
よろしくお願いいたします。

近藤 滋
(この意見は筆者が所属する組織の意見を反映しているものではありません)



*8月7日追記

8月6日にガチ議論スタッフの宮川が斉藤さんにお会いして質問してきました。以下、回答です(掲載についてはもちろん斉藤さんのご了承済みです)。
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質問1)研究教育に対する投資総額が増える可能性はゼロか?

斉藤:ゼロではないと思います。研究や教育が重要でない、というような意見はほとんど聞いたことがありませんし、むしろ、これからの日本を支えるのは研究教育である、という意見が主流です。ただし、研究教育に現在投資されている額の中での最適化の努力がアカデミアの中で十分されているのか、ということがあります。研究コミュニティが、外部の人、例えば、民間企業の方々や政治家などからみて、どう見えているか。投資総額を増やすという議論は、現在の予算の最適化の努力がなされていることが前提となるのではないでしょうか。財務省は、文教科学予算は最後の聖域として守られてきており、他の分野は厳しい合理化をすでに行っていると主張していますし。
多くの大学で最適化が進んでいないように見えるのはなぜでしょう。今回の人文系の話でも、研究者人口が少ないマイナーな分野だが、しっかり成果を出し、外から貢献が認められているような仕事、オンリーワンの研究としてコミュニティで認められている仕事をなくせという話とは全く別だと思っています。
ただ、様々な観点があり評価が難しい面はありますが、しっかり成果を出しているとは言いがたい部分は、コミュニティの中で自浄作用を発揮し、合理化すべきは合理化して、限られた予算を最適化してくださいという話かと思います。そういう部分を大学はそのまま放置していて有効な対策をたてていないように外部からは見えてしまっている、ということではないかと思います。そういった改革を補助するような様々な施策を文科省が打ち出していて、逆にそれが負担になってしまっているという意見も聞きます。しかし、それらの施策は、外部からの様々な厳しいご意見と、大学側、研究者の方々のご意見とバランスを取って反映させつつ作っているものです。施策に問題があるのであれば、大学側、研究者側からいろいろご意見を頂き、一緒に議論をして、より良いものに変える機会は常にあると思います。
痛みも伴う改革もやっていて、その結果、現在投資されている額が最大限活用されている、ということが外から見えるようになって、はじめて投資総額を増やそうという話が説得力を持つということではないでしょうか。
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質問2)全く競争的でないトップダウンの大型予算の存在は、競争的という題目と整合性はあるのか?

斉藤:社会的課題に対応するために要請される大型プロジェクトについても、従来の交付金やボトムアップの枠組みで最適化されて対応できていればトップダウン予算で選択と集中をしようという話にならない気もします。売上の8割は、全従業員のうちの2割で生み出しているなどという俗説もありますが、仮に、2割の活躍している人が全体の8割の成果をあげているとしましょう。その2割の活躍している研究者に資金を投資したほうがうまく使ってくれるのでないか、というかという気持ちがあるわけです。ノーベル賞、学会長、など有力な先生方はその2割に入っているだろう、そのような先生方の審査で大型予算を配分すると良いのではないかいうことになる。そうでないとすると、総額は同じで最大の成果をあげるための一番いい仕組みを研究者コミュニティの皆さんで検討してエビデンスを出していただき、役所も一緒になってそれを議論して、それに沿った制度を作れば良いと思います。一番実態をわかっておられるのは、その研究費を使い、成果を見ている先生方だと思いますので。
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質問3)広く浅く的なプログラムを今後増やす可能性は?

斉藤:ポートフォリオをどう組むかという話だと思います。「広く浅く的なプログラム」を増やしたほうが最適化に近づく、というエビデンスがもしあるのであれば、そういう方向に動くでしょう。しかし、エビデンスがない、科学的な正解というものがないのであれば、ポートフォリオをどう組むか、を決めるのは、結局はふわふわした世論のようなものになるのではないかと思います。大学・研究機関だけでない様々な団体や民間企業などの様々な意見を踏まえ、世の中がどう感じるかではないかと思います。
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質問4)過去の政策について、マイナス面も含めて文科省自身が検証したり、誰かが何らかの責任を取ったりしないのか?

斉藤:検証はしています。もともと政策評価システムという仕組みもありますし、事業仕分け、事業レビューなど、外部からの厳しいご指摘を受けることもあります。ただ、官僚は1~2年のような短い期間で配置転換になることが多く、責任者がわかりにくくなっている面はあるかと思います。
科学の大型プロジェクトについていえば、成功か失敗かの客観的な判断はなかなか難しいのではないでしょうか。そもそもそういう判断をアカデミアの方々の中で合意することができるでしょうか。科学的に「これは失敗でした」というような報告がなされれば動きはあるかもしれませんが。特に大型のプロジェクトで目指すものは、単に論文数だけでなく、インフラ整備や人材養成など様々な観点があり、それを推進した官僚や研究者が責任をとるほどに明確に失敗と判定するのは難しいのではないかという気がします。そもそも予算が厳しいので、明らかに質が悪い政策には予算も付きませんので。
様々な観点があるにしても、もう少し科学的根拠に基づいて科学技術政策を評価し、作っていこうということで「科学政策のための科学」というようなプログラムが立ち上がっており、難しいチャレンジながら活動が進んでいます。

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“政府による大学改革について直接お役人にきいてみた(8月7日 回答を加えました)” への135件のフィードバック

  1. ふら川 より:

    私の想像ですが、現行の官僚人事システムではどうしても考え方の似た人材が育成されてしまうように思います。忙しすぎて、実務経験や能力開発の機会が少ないのも、もったいないように思います(納得させるのが難しい、というのはそういうことではないでしょうか)。
    長期的な国の利益を考えようと思っても、自分で考えたアイディアを自信と責任を持って実行するという所まで達するのは、官僚の方でも簡単ではないと思うのです。そんなとき、組織の方針に流されるのは自然なことです。
    外部から人材を入れるのがわかりやすい対処法ですが、全て終身雇用となると予算が足りないと思うので、何か方法は必要でしょう。
    話が逸脱してしまい、申し訳ありません。研究者の場合はどうでしょうか・・・。

  2. 近藤滋 より:

    両極端は効率が悪そう。おそらく、ベストの選択は中間のどこかです。経済と同じで、完全にコントロールされた実験は難しいでしょうね。今あるデータの分析で、ある程度目算は着く様な気もします。ガチ議論当日には、科学政策関係のデータ調査を行っているNISTEPの人も来る予定なので、直接聞いてみることにしましょう。

  3. 通りすがりB より:

    エビデンスを出せということですから、ここはサイエンティストらしく実験しましょう。東大はトップダウン型+完全自由競争、京大は予算を各研究室の規模に応じて完全平等に配分、阪大はその中間ということにして、30年後どこがより多く成果を上げているか勝負したらどうでしょうか。

  4. 近藤滋 より:

    >ダメってことはないでしょう。その例も極端では?
    たしかに極端ですね(^^ゞ 良いバランスを図ることが必要でしょう。

    >どうせ長くいても責任はあやふやなんですし。

    こっちの方が問題ですね。ただ、官僚でも、できない人は外に飛ばされる、というのもあるそうです。是非、ガチ議論本番で聞いてみましょう。

  5. ABC より:

    ダメってことはないでしょう。その例も極端では? 実際、ある一定期間だけ省庁の仕事をするヒトっていますよ。文科省の場合あるかどうか知りませんが。本当に国の利益を考えることが、官僚システムの中で出世するためにどう繋がるのか門外漢にはわかりませんし。もし、予算獲得できるかが出世の目安となるシステムならば、任期制のほうがマシです。どうせ長くいても責任はあやふやなんですし。まあ、官僚システムについて考えても意味が無いですが。。。

  6. 近藤滋 より:

    公務員が任期制というのは、逆にダメなのではないでしょうか。長期的な国の利益を考えなければならない人が、自分中心的な行動をする恐れがあります。企業ですら、雇われ社長は短期的な利益に走りがちになるので、創業者一族が実権を持っている方がよい(トヨタや今回のVWの事件)という意見も出ています。

  7. ふら川 より:

    任期制、案外良いかもしれません。新卒一括採用もやめましょう。
    サバティカルのような制度で、現場を見てもらうのも良いですね。

  8. 田中智之 より:

    相次ぐ地方大卒の受賞…文科省幹部「地方大はプレッシャーが少ない」(産経ニュース)
    http://www.sankei.com/life/news/151006/lif1510060072-n1.html
    (引用)『相次ぐ地方国立大出身者の栄誉に、文部科学省幹部は「地方大は東京大や京大と違って成果を求めるプレッシャーが少なく、自由に研究に打ち込める雰囲気がよかったのではないか」と話す。』

    ここで取り上げられている文科省幹部の発言はやや第三者的に聞こえてしまいますが、この認識がこれからの研究支援のあり方にどの程度反映するのかが知りたいです。記事にもありますが、こうしたノーベル賞受賞者のキャリアパスは地方大学にもまだゆとりがあった頃の話で、現在はこのようなキャリアパスで優れた研究者が頭角をあらわすことは極めて難しいのではないでしょうか。

  9. 田中智之 より:

    私も私立大学に所属しておりましたので宮川先生の仰ることはよく理解できます。研究者を軸に考えれば、研究者の活動度を指標に資金配分できますから、研究機関の相違による問題をかなりの程度吸収できると思います。地方国立大学の研究環境の劣悪さというのは、過去にも報道されてきてそれなりに関心も持たれていたように思いますが、改善されることはありませんでした。社会に対する責任という意味で、これではいけないという思いがあります。私立大学で活発な研究を標榜していて、実際にはボロボロの研究室だとしたら、それは強いクレームが出てくると思うのですが、地方国立大学ではそれが「仕方ない」という反応になっていることが多いように思います。少し狭い範囲の議論になってしまいましたが、杉山さんの問題提起に対してということでご容赦ください。

  10. tsuyomiyakawa より:

    一言でいいますと、学生さんの問題は、「安定的に途切れなく配分されるような基盤的な科研費」を導入することで解決できるのではないかと思います。「国立大学の運営費交付金を増やして一律配分」というのは、私立大学教員からすると不公平感があることもあり、できるだけ避けていただきたいです。

    下の方に自分で書いたことを以下にコピペしておきます。
    —–

    まず仮に、「安定的に途切れなく配分されるような基盤的な科研費」が導入され、研究費が薄く広くいきわたるという状態ができたとしますと、その制度の下で「研究成果を出さない教員」という方は、おそらく研究以外の方向で活躍できる道を探すのが好ましいように思います。また個々の学生さんは、自分が興味を持つ研究(かできるだけそれに近い研究)を行うことが現実的にできる場を自分で探す力を持つべきではないでしょうか。その探し方も含めて大学では指導がなされてほしいところです。卒業論文の研究は、必ずしも所属学科、所属大学で行う必要はないはずです。ノーベル賞の大村先生も、これ http://www.brh.co.jp/s_library… を拝見しますと、各ライフステージにおいてご自分の研究の内容・興味をもとに、指導者の助言をうけつつ、適切な研究の場をご自分で探し当てられたことが、成功の一因のようにも見受けます。「研究成果を出さない教員に学生がつく」ということ自体が不幸なことなわけですが、そういうことが起こりにくくすることは可能ではないかと思います。

  11. tsuyomiyakawa より:

    L型、G型の分類については、ぜひ大村先生ご本人のご意見を伺ってみたいところですね(記者の方々にはぜひこの質問をお願いしたい)。

  12. tsuyomiyakawa より:

    「研究成果を出さない教員などについた学生」については問題があります」ね。 まず仮に、「安定的に途切れなく配分されるような基盤的な科研費」が導入され、研究費が薄く広くいきわたるという状態ができたとしますと、その制度の下で「研究成果を出さない教員」という方は、おそらく研究以外の方向で活躍できる道を探すのが好ましいように思います。また個々の学生さんは、自分が興味を持つ研究(かできるだけそれに近い研究)を行うことが現実的にできる場を自分で探す力を持つべきではないでしょうか。その探し方も含めて大学では指導がなされてほしいところです。卒業論文の研究は、必ずしも所属学科、所属大学で行う必要はないはずです。ノーベル賞の大村先生も、これ http://www.brh.co.jp/s_library/j_site/scientistweb/no84/ を拝見しますと、各ライフステージにおいてご自分の研究の内容・興味をもとに、指導者の助言をうけつつ、適切な研究の場をご自分で探し当てられたことが、成功の一因のようにも見受けます。「研究成果を出さない教員に学生がつく」ということ自体が不幸なことなわけですが、そういうことが起こりにくくすることは可能ではないかと思います。

    > 分野間の評価と予算配分をどのように決定するかです。この点は、非常に難しく評価が難しいところではないか

    これはご指摘のとおりだと思います。ただ、そもそも国立大学の各分野のポスト数というのがある種の厳然とした分野間の「予算配分」になっているのではないでしょうか。この古くからのポスト数という予算配分の方法は、「境界領域」「分野横断的な領域」「新しい領域」にいるような研究者の多くにとっては、現代的な学問分野に対応が遅れていて理にかなっていない「予算配分」の仕方に見えると思います(自分はそういう研究者なので自分の立場からはそう見えます)。
    では、どうすればと良いか、というのは難しいところですが、まずは現状の科研費の分類と配分予算を基準としてスタートして、分野の成長・衰退などをなんらかの方法で評価して、調整を行っていく方式のようなものが現実的にはありえるのではないでしょうか。

  13. 田中智之 より:

    杉山さんの問いかけは、基盤的研究費と競争的資金の適正な配分比という話題というよりは、むしろ競争的環境からこぼれている研究室をどう考えるかという問題ではないかと考えております。

    科研費の採択率を考慮すると、僅かの基盤的経費を中心に運営せざるを得ない時期もあるという研究室は相当数あると思われます。研究テーマにもよると思いますが、1年間実験を満足に継続することができない研究室もあります。実験できない実験科学というのは語義矛盾していますが、そういう研究室があることを放置して良いのかという問題提起ではないでしょうか。もはや研究活動における教員の工夫くらいではカバーできないくらい基盤的研究費は少ないです。

    国立大学の一員として責任をもって研究教育を実施しようにも、予算は常に不安定で、指導者が病気でもしようものならどうなるか分かりません。重点化で定員の増えた大学院の学生を預かる教員には、胃が痛む思いの方が多いと思います。一方で、年度末になると余剰予算の消化に悩む研究室もあるというのが現実です。しかも、そうした研究室ですら、2,3年先のことが見えないのが普通です。

    学生からは研究室の運営状況はなかなか見えないものですが、同じ大学に入学したにも関わらず、研究・教育環境にあまりに大きな格差があることは好ましくないと思います。科研費の枠、採択率と基盤的研究費をあわせて考えたときに、運営不可の研究室が生じないようにする必要があると思います。公的教育の責任という意味ではここが最低ラインだと思いますが、現実はこの線を割りつつあるのではないでしょうか。

    研究室の数を減らすか、競争的資金の枠から移行して補填するのか、あるいは研究費の総額を増やすのか、その選択は研究者の議論より一段高いところにあると思います。しかし、今後も我が国が先進国としてプレゼンスを示すことを目標にするならば、現状は国際的な比較の中で見劣りがする状況だと思います。

  14. 近藤滋 より:

    ぜひ、ガチ議論本番でぶつけてみましょう。
    今回のノーベル賞は、科学研究リソースの人為的な集中が、必ずしも効果的で無い事を示す良い例になっていると思います。

  15. 杉山康憲 より:

    返答どうもありがとうございます。

    >国立大学に一律、ということですと私立大学の人には大きな不公平感が感じられるということもぜひご留意いただければと思います;私は私立大学の教員です

    これはごもっともな意見かと思います。
    私は、日本の学生の大学における研究教育の水準をできる限り上げるためにはどうすればよいかという点が大事かと思っております。
    高水準に持ち上げるのは予算的に難しいかもしれませんが、最低限のレベルに達すようにする必要があるのではないかと思っております。
    それが、将来的には学問のすそ野を広げて様々な発展に繋がるのではないかと思います。
    個人的には科研費に頼らずともある程度の水準が確保できることが理想ではないかと考えております。

    >「安定的に途切れなく配分されるような基盤的な科研費」
    この記事を拝読させていただきました。
    確かにこのような予算があれば現状をある程度改善できるのではないかなと思います。
    ただし、研究成果を出さない教員などについた学生はそれでいいのかと思うところもあります(そういう教員がいるのがまず問題ですが)。
    もう一点は、私があまり読みこめていないだけかもしれませんが、分野間の評価と予算配分をどのように決定するかです。この点は、非常に難しく評価が難しいところではないかなと思っております。
    いずれにせよ、研究環境が改善されるように議論して変えていくことは非常に重要かと感じております。

  16. 辺境地方大学の研究者 より:

    地方大学である山梨大、しかも学芸学部(≒教育学部)出身の大村智先生がノーベル賞を受賞されたことについてどう考えるか、文科省や文科相に聞いたみたいものです。

  17. 杉山 康憲 より:

    返答どうもありがとうございます。
    私の考えでは競争的獲得資金が全く無くなるというのはダメだと思います。
    おっしゃられる通り、中間の最適ポイントというものがあるのかなと思っています。
    しかし、一昔前のように、運営交付金がもう少し多く配分されていればこのような問題も少なくなるのではないかと感じているところです。
    では、その予算をどうするかということになるかと思いますが、私はあまり詳しくはないですが、一部の研究所などでは過剰に予算が配分されているなどを聞いたことがあります。
    他にも一つの研究室に使いきれないほどの予算がある例などもあります。
    こういった予算はある程度は削減可能ではないのかなと思うことがあります。
    もちろん、大学単位においても無駄に予算が使われていることもあると思われます。
    こういった無駄をどのように見つけて、配分していくかについては、我々研究者が考える必要がある一方、研究者だけでは解決し難いところ(制度的な改革も必要)も多々あるのではないかと考えているところです。
    あまり具体的でなく申し訳ありませんが、こういう議論が進めばと思っております。

  18. 近藤滋 より:

    もう少し具体的に言うと、どういったことでしょうか?
    官僚も任期制にするとか?

  19. ふら川 より:

    官僚組織内外の人材の流動性を高めるのが良いのではないですか。

  20. tsuyomiyakawa より:

    卒業論文の研究は、単なる実験演習ではなくオリジナルな研究を目指すというものであるというのが本来の姿、建前かと思います。そこにかかるコストはその学問分野やその研究自体の性質・内容によって大きく異なるはずで、それを国立大学教員or学生に一律に配分するというのは事実上困難ではないでしょうか。また、一律でなく分野や大学名などで差をつけて配分するということだと、あまりもらえないところの人には不公平感が感じられてしまうのではないでしょうか(国立大学に一律、ということですと私立大学の人には大きな不公平感が感じられるということもぜひご留意いただければと思います;私は私立大学の教員です)。

    一方で、できるだけ多くの学生さんに良質な本物の研究に少しでも触れてもらってから卒業してもらいたい、という考え方については大学関係者のみならず広くコンセンサスが得られるように思います。では、「良質な本物の研究」とは何か、ということがポイントになりそうですが、それを判断するための現状で最もフェアであり、不公平感も薄いと考えられる評価の仕組みというのは、やはり科研費の審査ということになるのではないでしょうか。しかしながら、現状の科研費は、当たり外れがあまりにも激しく、「予算が獲得できない」ことが頻繁に起きてしまい、杉山さんはそこを問題視されているのかと思います。

    そこでやはり提案したいのが、このサイトで以前から議論している、「安定的に途切れなく配分されるような基盤的な科研費」です。 http://scienceinjapan.org/topics/031413.html
    近藤さんのおっしゃる「中間のどこか」のある種の最適な形に近いものがこれだと思います。
    このようなものが実現されれば、それで良いのではないでしょうか。いかがでしょう。

  21. 近藤滋 より:

    >予算が獲得できない場合には最低限度の教育を行うことができないという現状についてはどのように考えますか?

    研究資金が配分が極端に競争的になると、研究が可能なのは、一部の研究所・大学のみとなり、研究の多様性が失われます。これは、おっしゃる通り、科学の発展に対して大きなマイナスです。
    しかし、その逆に、競争的配分を無くし、全ての国立大学の教官に予算を一律に与えるというのも、ダメだと思います。
    現実的に考えれば、その中間のどこかに最適なポイントがあると思われます。ただ、そのポイントを客観的に判断するデータが無く、海外との比較もありません。そのようなデータの調査は、専門の調査機関が必要と思います。

    個人的には、現状の配分比率は、科研費に関してはそれほど悪くないと思っていますが、それ以外の大型研究費に関しては、もっと裾野を広くすべきと感じます。

    >このような現状を改善するにはどうすれば良いと考えられますか?

    我々にできるのは、どの程度競争的であるのが一番効率が良いのかを見極め、その目的に見合った審査制度を提案することだと思います。その上で、説得力のあるデータと共に「その方法が日本にとって最良であること」を政府(および一般国民に)提示し続けることでしょう。

  22. 杉山康憲 より:

    現在の国立大学において教員一人に配分される研究予算では卒業論文研究を行えないこと(主に教員が取得している科研費などの外部予算で賄われている)は非常に問題であると考えいています。予算が獲得できない場合には最低限度の教育を行うことができないという現状についてはどのように考えますか?このような現状を改善するにはどうすれば良いと考えられますか?

  23. tsuyomiyakawa より:

    文科省や財務省などが「選択と集中」を推し進めようという明示的な意思を強力にもっている(いた)ということは、実はそれほどないのではないかと感じてます。むしろ「過度の集中」を抑えようというような活動もあるわけです。ところが、実際には結果として「選択と集中」が過度に進んだ、という事実が一方ではあります。

    これはどういうことかというと、申請可能な研究費の種目がたくさんありすぎ(科研費だけでもいろいろあり、そこにJSTのもの、グローバルスーパーなんとかのような機関にくるもの、財団のものなどなど)、それぞれ採択率が5〜30%ということになっている。そこに富める者も貧しいものもみなさん応募するわけですが、サイエンスやネイチャーなどのメジャージャーナルに出している研究者がどれも取得し、総取り状態になるわけです。まずしいものはどれも通らない。そういうことだと思います。例えば、近藤さんのような実績がたくさんある研究者は、CREST、新学術計画班、加えて基盤Bとかも持たれていたりするわけです。どれも同じような基準で選ぶので貧しいほうはどれもとおりません。これが、日本の研究の仕組みでの「選択と集中」の本質的メカニズムだと思います。誰かが意図したから「選択と集中」が生じたのではなく、自然に生じてしまっていると考えたほうがおそらく正しい、ということですね。総額を増やせ、と言う前にそのあたりの仕組みをよく考える必要がある、というのが僕の意見です。で、そのための具体的改善案は既にこちらのサイトでいろいろと出てます。そのたぐいの改善案を揉んでさらにブラッシュアップしつつ、粘り強く何年も主張し続けるのが重要だと思います。

    「・事前にプロジェクトの評価の観点(狙い)を明示し、それぞれについて個別に事後評価する。
    ・達成度が思わしくない項目については、その理由について申請者と配分機関が議論する。
    ・これらの情報は公開、あるいはある範囲で共有し、今後申請する人たちが参考にする。」ですが、大型プロジェクトではどれも多かれ少なかれ既に行われていると思います。また、終了時に当初の目的がどれくらい果たされたかについては、公開の終了シンポジウムのようなものはたいてい存在しますし、事後評価、終了後何年かあとの評価も行なわれて公開されています。

    「Post publication reviewのような形で匿名で良いので自由に意見を述べてもらうという仕組み」というのは新しいご提案だと思います。良いのではないでしょうか。

    と、書いている今現在も研究費取得の努力を(ものすごく)しなければいけない状態なので、しばらく離脱させていただきます。

  24. 田中智之 より:

    国公立、私立の大学、国立の研究所等、それぞれ状況は異なるのですが、研究室単位で見た場合は、「貧しくなった」研究室の方がはるかに多いと思います。それはこれまでの「選択と集中」の方針の帰結です。多様性がそれほど尊重されなかったことは明らかです。豊田先生のレポートでは、「選択と集中」がマイナスの効果を発揮している可能性が、データをもとに議論されています(しかも結論の一つは総額を拡大すべきというものです)。こちらについては、上記の記事の通り、政策立案者もまた今や「選択と集中」が良いという考えではないということであれば、良い方向に向かっていると思います。同時に、宮川先生がこれまでにアイデアを出されている、研究環境の改善策を進めることも非常に重要だと思います。

    http://www.janu.jp/report/files/2014-seisakukenkyujo-uneihi-all.pdf

    具体案を出すようにと言うことですが、
    ・事前にプロジェクトの評価の観点(狙い)を明示し、それぞれについて個別に事後評価する。
    ・達成度が思わしくない項目については、その理由について申請者と配分機関が議論する。
    ・これらの情報は公開、あるいはある範囲で共有し、今後申請する人たちが参考にする。

    ・Post publication reviewのような形で匿名で良いので自由に意見を述べてもらうという仕組みも良いと思います。質の低い意見もあるでしょうが、それは読む方が取捨選択すれば良いと思います。大型プロジェクトについては同業者による妬みの感情もあるでしょうが、一方で良い指摘もあり、これを居酒屋で消費するのはもったいないと思います。

    採択時にかかげた「社会のニーズ」がどう満たされたかを説明している大型プロジェクトはまだ少ないように思いますが、こちらは私の調査が不足しているのかも知れません。私はリアルタイムで議論されている内容について存じ上げないので、現状をもとに意見を述べています。既にそういう議論は消化されているということであれば、同じことを主張している理由は情報がないためです。

  25. tsuyomiyakawa より:

    「一定レベルの薄く広い基礎研究への投資は不可欠」「多様性を確保しておくと、国としても幅広い専門家を抱える」ということは認識は既にされており、それを支えるのが科研費、という位置づけだと思います。それをさらに増やして欲しい、ということがおっしゃりたいことであれば、「それは既にどんどん増やしてきている」というのが文科省や財務省の考え方で、「増やしているのに論文数などの成果は落ちてきているのはどういうことか」という疑問が一方であるわけです。それに対する答えは、総額の問題よりもむしろ、既にこのガチ議論サイトでもトピックとして出てきたようなことを含めていろいろあるのだと思います(雑用が多すぎるとか、申請しなければいけない種目が多すぎるとか、ギャンブルのようになっているとか、身分が安定していないとか)。

    繰り返しになりますが、「それがどの程度達成されたのかに関心を向ける人」は文科省も含めていらっしゃいますし、「「社会のニーズ」は大型プロジェクトによって満たされましたか?という評価」というのも既に何らかの形でされていると思います。「評価の観点を設定し、これをもとにプロジェクトのあり方を構想する」にはどうすればよいのか、というようなことについても、いろいろと議論されてます。実際、「科学技術政策のための科学」というようなプロジェクトにかなりの予算がついて現在進められています(僕もそのようなところの会議に何回か参加させてもらってます)。そういう活動の実際の状況をご覧になって、それを踏まえつつ、どう評価して、どのように次に繋げるのがよいかについての具体案を出されるとよいのではないでしょうか。

  26. 田中智之 より:

    評価が実施され、公開されていることは事実なのですが、次のプロジェクトのあり方に積極的に活かされているでしょうか。評価の観点を設定し、これをもとにプロジェクトのあり方を構想するというのは、まさに資金配分機関の重要な仕事だと思います。もちろん、意見を述べることは大切ですが、配分機関のPDCAサイクルまで研究者が研究時間を割いて具体的な案を考えるべきであるのかは些か疑問です。

    財務省、文科省の認識と違う観点を出すことも、研究者が行う議論の大事なポイントです。歴史を振り返っても、大きなイノベーションは、役に立つかどうか分からない基礎研究から生まれています。どの基礎研究が大きな成果に結実するかを見極めることは現実的には不可能です。多様性を維持することの重要性はここにあります。

    「研究コミュニティへ投資していると自然に社会へのニーズが満たされる」などということは一度も主張していません。以前のコメントもそうですが、藁人形論法を持ち出されると議論の質が下がります。社会を変えるような大きなイノベーションを望むのであれば、一定レベルの薄く広い基礎研究への投資は不可欠ということを指摘しています。多様性を確保しておくと、国としても幅広い専門家を抱えることができます。日本はお金がないのでもうそういう貢献は無理という考え方もあるでしょうが、個人的にはもう少し頑張れるのではと考えます。

    社会のニーズに合わせた大型研究まで否定しているのではありません。その「社会のニーズ」は大型プロジェクトによって満たされましたか?という評価が重要です。素敵なプランは目にしますが、それがどの程度達成されたのかに関心を向ける人は少ないです。

  27. tsuyomiyakawa より:

    大型プロジェクトについては、たいていの場合、中間評価、事後評価、ものによっては、数年後の評価が既に行われており、公開もされているのではないでしょうか。

    文科省やJSTなどは、評価の必要性はもちろん既に強く認識されており、研究者側から必要なフィードバックは具体的にそれらをどのように改良するかということかと思います。もし、今、評価に不十分な点があるのであれば、それはむしろ研究者コミュニティで検討・提案するべき、ということになるでしょう。
    その際に、現在問題になっているような「評価のための評価」「評価疲れで評価される側のみならず、する側の研究活動にも支障がでる」というような具合にならないように気をつける必要があるように思います。

    「大型プロジェクトについては、全体の多様性を削ってでも進めるという判断」という点は、おそらく財務省とか文科省の認識とは異なるのではないでしょうか。「研究コミュニティへの投資」という概念ではなく、社会的ニーズのある研究開発に予算をつけている、という考え方で、それぞれのプロジェクトごとに説明はされているはずです。

    研究コミュニティへ投資していると自然に社会へのニーズが満たされる、というような考え方は、実は研究者以外の方々からみるとかなり特殊な発想、「仮説」でしかないのは間違いなく、そういう特殊な仮説を主張するのであれば、エビデンスをもって説得力のある説明をすることが必要になる、ということだと思います。

  28. 田中智之 より:

    科学の大型プロジェクトの成否の判定は難しいという話題が出ていますが、一方で、記事の中では論文数、インフラ整備、人材養成等、評価の観点がいくつかあげられています。論文数やその引用数、インフラの数のように数値化できるものもあれば、記述的にしか評価できないものもありますが、観点が多いから評価不能ということはありません。

    事業の結果について責任を取るというプロセスは官僚の場合は難しいのかもしれませんが、責任が問われないのであれば、少なくとも評価の公開はしていただきたいです。事前に評価の観点を決めておくとより公正です。前回の検証のもとに、次の大型プロジェクトを計画するということでなければ、PDCAサイクルが回っているとはいえないでしょう。

    基礎研究とイノベーションとの関係に立ち返れば、基本的には研究の多様性を維持することが、大きなイノベーションにつながるはずです。大型プロジェクトについては、全体の多様性を削ってでも進めるという判断に対する説明責任があるはずです。現状は、国民どころか研究者に対してすらそうした説明はありません。研究コミュニティへの投資を偏在させるわけですから、大型プロジェクトのあり方は、厳しい検証を繰り返すことで、洗練させていかなければいけないと思います。

  29. 近藤滋 より:

    それを、その本人に納得させる、という困難な作業をしなければならないのですよ。どうすればよいでしょう?

  30. 通りすがり より:

    昨今のオリンピックに纏わる問題を見ていても、官僚ってクリエイティブなものとは対極の職業であるように思う。クリエイティブな発想を持っていれば、肩書きで上位2割りを選ぼうということには絶対ならない。本来的にクリエイティブでない自分たち官僚に、究極にクリエイティブなことを生業とする研究者を順位付けすることなど出来ないと自重する事から、まず始めるべきではないか。カッコつけてトップダウンとか言ったって、結局、駄サイクルの罠にハマって理研とかオリンピックの不祥事みたいな事になるのがオチ。それよりも、今は土に埋もれている幾つもの種の中から、自然と芽吹いて、立派に花を咲かすものがより多く現れることを祈りながら、根気よく満遍なく水をやり続けるというのが、政治や官僚という職にある人達のなすべきことではないか。

  31. Koichi Kawakami より:

    さきがけと新学術では採択の方法がかなりちがうので、同列には扱えないと思います。さきがけの生物系が少なくなったのは残念ですね。領域会議に意義があるのであれば、研究費の配分(する権利)とは切り離した方がいいように思いますね。

  32. Koichi Kawakami より:

    『ノーベル賞、学会長、など有力な先生方はその2割に入っているだろう、そのような先生方の審査で大型予算を配分すると良いのではないかいうことになる。』

    このようなことをおっしゃっているようでは、はっきり言ってお話にならないと思います。

  33. 田中智之 より:

    ポートフォリオを考える上での、積極的な意味の必要性は重要な指摘だと思います。別の場所でも述べているのですが、運営費交付金や基盤的研究費の意義づけの中で重要なものの一つは人材育成だと考えています。研究活動を支える人材は、育成の場がないことには供給することができません。この点について軽視される論者が多いような印象を持っています。

    この点を強く打ち出すためには、大学の研究者が人材育成に取り組んでいるという意識を強く持つべきだと思います。また、学位審査についてもより厳正に行い、供給する人材の質を大学がしっかりと保証しなければいけないと思います。さらに、昨今の企業における人材育成のトレンドを見ると、自然科学の研究室の出身者は研究以外の領域でも十分活躍できると考えています。

    基礎研究の評価方法は非常に難しいことではありますが、安易に数値に依存するのではなく、定性的な評価軸を定めていくことが重要であると考えます。「科学政策のための科学」においてもそうした方向性も是非追求していただきたいと思います。

  34. yaeko takeoka より:

    「ゴールが明示されている応用研究とは異なり、すぐに社会に役立つわけではない基礎研究の成果の評価は本来難しいことであるはずです。「競争」とは、新規性や再現性、テーマの方向性ではなく取り組みの質、といった軸で評価すべきです。」

    なるほど、基礎研究の評価軸は違う、ということですね。
    基礎研究の評価軸にふさわしい評価方法(観測方法)も含め、それが斎藤さんの言う「科学政策のための科学」の議論にリンクしていくといいですね。

    それから、先に
    (1)「競争的資金」全体のポートフォリオ設計が適切に行われること
    と書きましたが、
    競争的資金に限らず(0)「基礎研究に対する研究資金投資のポートフォリオ」として、運営費交付金や基盤的研究費を含め、積極的な意味を与えていく必要があるのかな、と思いました。

  35. tsuyomiyakawa より:

    「競争的資金へのシフトが構想されていると言うことは、「選択と集中」がうまくいかないという認識が共有されていないことを示しているように思います。」

    行き過ぎた選択と集中は問題であることに異論はないと思うのですが、やはりここでもポイントは、最適なバランス、ポートフォリオがどのようなものか、ということに帰着するのではないでしょうか。現在議論すべきは、それをより最適なものに近づけるための具体的方法ではないかと思います。

    以下のように、
    http://scienceinjapan.org/topics/031413.html
    競争的であっても、安定的な基盤的研究費が長期にわたって得られ、また幅広い層に行き渡らせる方法はありえるわけです。

    「審査は時間をかけて丁寧に行うことが望ましい」というのも仰るとおりで、おそらく異論はあまりなく、これについても今必要なことはそれを進めるための施策まで落とし込めるレベルの具体的方法を議論することかと思います。上の安定した基盤的研究費の案に加え、研究費を大くくりにして種目数を減らし、審査しなければいけない絶対数を減らすことによって、丁寧な審査が可能になってくるのではと思います。

  36. 田中智之 より:

    生命科学研究の分野で考えると、競争原理の導入は「選択と集中」につながりやすいです。研究費が潤沢な場では、先端的な研究機器を配置し、たくさんの可能性を試験することができます。そうした場は成果が出やすく、これはポジティブなサイクルにつながります。一方で逆を考えれば、じり貧に陥るサイクルもあるわけで、基盤的な資金が小さければ研究ユニットの数は次第に減少していき、多様性が失われます。競争的資金へのシフトが構想されていると言うことは、「選択と集中」がうまくいかないという認識が共有されていないことを示しているように思います。

    もう一点は、競争の根拠となる「成果」とは何かです。トップジャーナルは社会へのインパクトを重視するあまり時々捏造論文を掲載してしまうこともあります。トップジャーナルへの掲載を、直ちに一級の成果として承認することの危険性については、少し理解が深まってきたように思います。組織的な不正研究を行うラボが、「成果」至上主義であることも教訓的です。ゴールが明示されている応用研究とは異なり、すぐに社会に役立つわけではない基礎研究の成果の評価は本来難しいことであるはずです。「競争」とは、新規性や再現性、テーマの方向性ではなく取り組みの質、といった軸で評価すべきです。そのためには、審査は時間をかけて丁寧に行うことが望ましいと思います。

    実験科学は一種の自作自演という側面があるので、他の研究者による再現性がとれるまでは慎重な態度を保つことが望ましいのですが、比較的容易に再現性の確認できる分野の研究者や、あるいは理論科学の研究者には、この点が十分伝わっていないように思います。生命科学では、一つの学説が妥当とされる、あるいは却下されるまでに比較的時間がかります。よって、短期間での競争を強いると、結果として間違った方向に進みやすいという問題も考慮に入れる必要があると思います。

  37. tsuyomiyakawa より:

    「競争的資金」の配分が、真実「競争的に決まる」こと」
    は重要だと思うのですが、やはり多すぎる競争(多数に申請せねばならない;採択率はどれも低く審査するほうもたいへん)とそれにともなう事務疲れ(申請書・報告書・その他事務、審査の報告書など)が日本の科学技術を弱めていると思います。

    やはり安定した基盤的研究費
    http://scienceinjapan.org/topics/031413.html
    の導入が効果的なのではないかと思いますがいかがでしょうかね。
    基盤的研究の中で光るシーズを中型・大型のトップダウン型のようなものとしてピックアップし、それにピックアップされたら基盤的研究はペンディングにし他の人の回す(トップダウンのプロジェクトが終了したら基盤的研究に戻ることができる)というような、基盤的研究、トップダウン研究が比較的シームレスに連動するような仕組みがよいのではないでしょうか。
    仕組みとしては、全体の申請数・審査数を大幅に削減しつつ、研究費の額的には現状よりもずっと安定方向にシフトするのが、競争をより実質的でフェアなものにするのではないかと思います。

  38. yaeko takeoka より:

    リンク先のアドレスが切れてしまいました。
    上は、国立大学運営費交付金改革(上) という東大橋本和仁教授のインタビュー記事
    下の上山教授の資料の表題は、「グローバルな基準から見た国立大学改革について」です。

  39. yaeko takeoka より:

    国立大学の運営費交付金は、ほぼ人件費にあてられており、運営費交付金の削減は、若手研究者の雇用を直撃しています。テニュアトラック制度を設けても、運営費交付金が削減される現状では、若手研究者を正規雇用できない、という矛盾が生じています。

    現在、国立大学の運営費交付金と競争的資金をあわせて改革する、という方向の議論がされています。競争的資金の中から大学の運営に回す間接経費を出す仕組みに変える、という方向です。

    http://kyoiku.yomiuri.co.jp/torikumi/jitsuryoku/iken/contents/post-263.php

    「国立大学の人件費を運営費交付金に依存することは限界である」として、競争的資金を今以上に積極的に獲得し、競争的資金の中から大学の運営に回す間接経費を出していく方向性が打ち出されている、ということです。
    現在運営費交付金を多く配分されている旧帝大系の大学ほど、今以上に、大学経営の原資獲得のため競争的資金獲得に傾斜していくと思われます。

    競争的資金獲得の偏在傾向が今後どうなるのか。競争的資金の獲得と若手研究人材の正規雇用の資金が連動していくようになっていくのか。

    この仕組みを公正・適切に働かせるのであれば、前提として重要なのは、皆様がご指摘のとおりと思います。
    (1)「競争的資金」全体のポートフォリオ設計が適切に行われること
    (2)「競争的資金」の配分が、真実「競争的に決まる」こと

    大学経営の原資の配分でもあるので、配分の適正をどのように担保するかを考えないと、生々しいことになるのかな、と思います。基礎研究の分野の方々の意見が、政策に反映される機会が少ないのかな、という感想を持っています。

    なお、現在の国立大学の運営費・研究費をめぐる制度改革論は、1980年代のアメリカの大学改革をモデルにしているようです。
    http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/062/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2015/01/19/1354523_2_1.pdf
    (第3期国立大学運営費交付金検討会 上山委員(現政策研究大学院大学副学長)資料)

  40. Shinichi Nakagawa より:

    そうですね。「この状況で今必要か」ということも含めて、現場レベルの意見の分布が見えるようになると良いですね。

  41. 田中智之 より:

    具体的なイメージを描かれていますが、このような実例がどの程度あるのかということが大事ですね。機能的ではない構成員という問題は一定サイズ以上の組織であれば常に生じる問題ですから、これを限りなく少なくしようと努力することで、組織そのものの活力が低下しては本末転倒です。どれくらいが適当かということを判断するには、より精密なデータが必要ですね。

    研究不正を含めた再現性の問題は研究コミュニティで解決できるという考え方には賛成できません。研究支援の制度設計に関わる全ての方が、実験科学では再現性が何よりも重要である(再現性のないものには価値がない)ことを理解しなければいけないと思います。言葉の上では理解している方が殆どですが、制度設計としては再現性が軽視されることは多いです。関係者が再現性を重視することは、研究環境の改善に資すると思います。

  42. 田中智之 より:

    例えばNISTEPではここでの研究者の議論を裏打ちするような分析結果を確認することができます(そうそうと膝を打ちたくなるような解析もあります)。こうした取り組みを通じてエビデンスは蓄積しているので、次はこれをうまく活用してベターな計画を模索する段階ではないかと考えます。

    http://data.nistep.go.jp/dspace/

    言葉足らずであったかもしれませんが、オールオアナンなどということを主張しているわけではありません。Nakagawaさんのご意見が整理されているので付け加えることはないのですが、大型研究費には一定の公益性が必要であり、公益性を保証するためにはどうすれば良いのかを考えるべきだと思います。

  43. tsuyomiyakawa より:

    中川さんのご意見、特に
    「3)当該分野だけでなく周辺分野の関係者の総意をなるべく取り入れる形で決めれば波及効果も高いのでは」
    の点、賛成です。
    実は、先月の神経科学学会での討論会でも、大型プロジェクトの議論があり、そういうプロジェクトの原案を学会連合の共催シンポジウムのようなものやネット上などで紹介・議論し、しっかり現場の意見も含めて集約し洗練させてからあげるべき、という意見が出て、かなり賛同されていました。
    分生でもそういうのをやると良いのでは。

  44. Shinichi Nakagawa より:

    FBの方に書いたのですが、こちらに転載させてください。議論の繰り返しになっているのはご容赦ください。。。
    ーー
    ガチ議論サイトのほうでも様々な議論がなされているようですが、超大型巨人、ならぬ超大型プロジェクト研究費に関しては、1)本当に必要なのか。2)必要ならばどれぐらいの割合で必要なのか。3)ある割合で必要ならどういうプロセスでそれが決定されるべきなのか。と、3層の問題があるようです。

    個人的には基盤Cではロケットは飛ばせないし、ロケットだけ飛ばしてそれ以外の99%の研究者が転職を強いられるのもおかしいと思います。最適なポートフォリオ(カッコつけた言葉ですが要は割合)を割り出すに十分なデータは、科学技術基本計画発足後20年の間にかなりの蓄積があるのではないかと。

    ポートフォリオは「データサイエンティスト」の方々が答えを出してくれると思うのですが、研究現場の土方の感覚から言いますと、土方がハッピーでないプロジェクトはどこかに無理があるのではないかと思っています。夢を追うための超大型プロジェクトなのに、現場の人間にやらされている感があるようでは…

    iPSの研究が生まれた土壌を大事にする、というのが、一つのわかりやすい答えなのではないかと思っています。iPSの発見は山中さんの個人的な研究の中で生まれたのではないでしょうか。また、その一方で、一連のゲノム関連プロジェクトがなければあの研究は生まれなかったのではとも思います。

    ここに一つな大きなメッセージがあって、ゲノム関連プロジェクトは「ライフサイエンスコミュニティーの多くの人が使えるリソースであった」ということ、また「コミュニティーの多くの人がその完了を待ち望んでいた」プロジェクトであった、ということです。

    多くの人が待ち望んでいるプロジェクトであれば、そこには集中的に資金が投じられるべきでしょうし、波及効果も高いはずです。何か超大型プロジェクトを立てなければ日常の研究もできないというのは、それは本末転倒です。

    ですので、冒頭の話に戻ると、個人的には、1)超大型プロジェクトは必要。2)ポートフォリオは今の時代ならエビデンスベースで決められるはず。3)当該分野だけでなく周辺分野の関係者の総意をなるべく取り入れる形で決めれば波及効果も高いのでは、と思います。

  45. tsuyomiyakawa より:

    おそらく、そういったことを示す論文とかレポートなどの具体的エビデンスをこういった議論の中で示していくことが大事ということだと思います。

    大型の予算を使うプロジェクトについては、ヒトゲノムプロジェクトやアレンブレインアトラス(これは民間資金ですが)などは、投資額分の価値かそれを超える価値があると思う人が多いのではないでしょうか。大型の望遠鏡とか、大型加速器などもおそらく必要なわけです。もちろん投資額に見合う価値のなかったと思われる大型プロジェクトもあるのですが、そのあたりは個々の案件ごとに議論がなされる必要がありそうです。また、日本は他国の大型プロジェクトの成果にただのりしている、という批判もされないようにする必要というのもあるかと思います。

    あと、「ポートフォリオではバラマキ型が優れている」というのはおそらく正確ではないですね。どちらかが優れているのでどちらか一方だけに決め打ちする、というようなオールオアナンではあり得ず、あくまでも大型と基盤的研究費の総額のバランスの最適なところがどのようなものか、という問いを考えるということになると思います。例えば、「ポートフォリオでは、今よりバラマキ型の割合を増やしたところに最適なポイントがある」というような答えになるはずではないでしょうか。

  46. tsuyomiyakawa より:

    「合理化」の件ですが、その背景にあることとして以下のようなことがあると思われます。
    大学には、ほとんど研究をしていない教員というのが少なからずいらっしゃいますね。研究もほとんどしておらず、授業も面白くなく休講も多い、というような方々です。では、そういう人が地域で社会貢献をされているかというとそうでもない。地方の企業の人々から見ると、大学の先生は立派すぎて敷居が高く相談にもいけない。そういった先生方でも、年功序列で給料は上がっていき、安定したポジションを持っているわけです。理系では比較的少ないが、文系では結構いらっしゃる(という印象が世の中に存在する)。Researchmapに研究教育実績や社会貢献を一元化して集約しようとすると、「個人情報は掲載したくない」とおっしゃる方々が一定数いらっしゃるようですが(特に文系)、そういう方々ですね。そういう部分を大学はそのまま放置していて有効な対策をたてていないように、大学の外からは見えるわけです。それが、「合理化」がなされていない、という意味ではないかと思います。

    研究不正に多発や、再現性のなさは、これは基本的には研究者コミュニティがなんとかすべき問題だと思います。ビッグジャーナルに掲載さえされすれば、研究費でも人事でも全て良し、という文化が問題で、これは文科省のお力を借りなくとも研究者だけでなんとかできるはずのものですし、そうでないとまずいような気がします。ただ、オープンアクセス・オープンデータを原則義務化していただくとか、研究費全般について研究成果がどの程度再現性がありどの程度活用されているかの評価で決まるようなアワード型に順次変更していってもらうとか、文科省にサポートしてもらうことのできることもいろいろあるとは思います。

  47. 田中智之 より:

    基礎研究のポートフォリオではバラマキ型が優れていることについては既にたくさんの指摘があるのではないでしょうか。将来のトレンドの変動に国家レベルで備えるという観点からも、カバーされる分野は広い方が多くの専門家を養成できます。また、アメリカの強みは研究費総額だけではなく研究の多様性と柔軟性でもあることは、文科省作成の資料でも認識されているところです。こうした分析結果をもっているのですから、世の中の声に耳を傾けるだけではなく、逆に多様性が基礎研究には重要であることを社会に訴えていくべきではないでしょうか。

  48. 田中智之 より:

    運営費交付金削減には強制力がありますから、自然科学系の学部では「その人は良い研究をしているかもしれないが、大型研究費がひっぱれないでしょう」などという意見が人事で公言されることが普通になり、研究費が稼げるスター研究者が切望され、それ以外の指標は軽視される傾向が定着しつつあります。斉藤さんの指摘では、まだまだ大学は合理化できておらず、余剰人員を抱えていることになっていますが、これ以上合理化を進めれば訴訟を免れないだろうという組織もあります。ある程度の合理化は交付金削減により自ずと生じていると思います。

    一方で、合理化の対象は大学だけで良いのでしょうか。不思議なこととして、理化学研究所や東大の分生研のような大型研究不正について検証しようという動きがないことがあげられます。全体的に相当な額の研究費が浪費されたことは明らか(成果という意味ではほぼゼロで、逆にマイナスの影響があります)なのですが、真相は藪の中で、どうしてこういう事件が起こってしまったのかは今なお理解は困難です。研究費の審査や配分手法、事後の評価、ビッグラボの研究活動に対する精査の不足といった構造的な問題があるように見えるのですが、それぞれの事件の特殊な問題として片付けられてしまったように感じます。

    再現性のない研究に多額の資金が投入されていることは、国際的にも大きな問題として認識されており、様々なアプローチが検討されています。一方で、国内では研究の再現性やその原因の一つである研究不正に関する議論は極めて低調です。文科省がこの状況を看過することは、結果として、再現性のない研究を消極的に容認することになるのではないでしょうか。巨額の予算を与える前に、第三者の研究者にコアデータの再現性だけでも調べてもらえば、かなりの税金が節約できるのではないでしょうか。

    抱える問題(再現性の低さ)は国際的に共通しているのですが、その対策については海外の動きと逆行しているような気がします。予算の最適化という意味では、既に傷んでいる大学に圧力をかけるよりも、再現性のある研究に研究費をつける工夫の方が効果があるかもしれません。生命科学ではビッグジャーナルに掲載された有力論文のうち再現性がある研究は2, 3割という報告もありますが、これを5割にするだけで2倍の効率化です。伸び代の大きい検討するべき課題ではないでしょうか。

  49. tsuyomiyakawa より:

    ここで持ちだされているのはいわゆる俗説としてのパレートの法則で、研究者と研究成果の関係についてこれが成り立つかどうかについては、何か特定の証拠を念頭に置かれているということではないと思います(探せばそういうデータや論文はもしかするとあるのかもしれませんが)。現在では科学的政策でも必ずしも科学的根拠にもとづいて進められているわけではない、だからこそそういう類のエビデンスが今後は必要、ということがおっしゃりたいことの一つなのではないかと。

  50. 近藤滋 より:

    >2:8の法則って科学的な根拠あるんですかね?

    ごもっともな感想です。会話での回答をそのまま文章化すると、いろいろな要素が(話し始めのきっかけとか)混ざってしまい、ポイントがわからなくなりがちです。質問の文章にも、不明確な点がありました。私がまとめた質問の意図は、トップダウンの大型研究費が「なぜ競争的ではないのか?」にありましたが、答えは、「なぜ、トップダウンの研究費を必要とするか」になり、質問と回答の間がちぐはぐなところがあります。私が自分で質問に行ければよかったのですが、、、申し訳ありません。

    この項の斎藤さんの答えの重要ポイントは

    「研究者コミュニティの皆さんで検討してエビデンスを出していただき、役所も一緒になってそれを議論して、それに沿った制度を作れば良いと思います。」

    です。一緒に議論することで制度は変わるということで、これが、ガチ議論の存在意義でもあります。

  51. 通りすがり より:

    2:8の法則って科学的な根拠あるんですかね?

  52. tsuyomiyakawa より:

    山形さんのおっしゃるように「日本の科学研究政策、世界の科学研究政策を良いものにしたい」というのは多くの研究者が思っていると思いますが、「自らの都合や自らの利益を優先せず」というのを完全に行うことは、原理的に困難だと思います。あらゆる人は、そういうものから完全にフリーにはなることはできないだろうからです。

    自らの都合や自らの利益をできるだけオープンにしつつ、その時々のTPOを認識しつつ、それとこれとはきっちり分けて活動する、というような倫理観が浸透することが必要なのではないでしょうか。

    例えば、僕個人の例で考えてみただけでも、私立大学、大学共同利用研究機関に属しており、その所属の利益を上げるための職務があるわけです。さらには、神経科学学会、その他複数学会に属していてそれぞれの利益のために活動しており、産学連携の共同研究も複数行い、自分の研究室のメンバーの利益になるような活動ももちろんしてます。「安定した中央雇用のポジション」の提案のようなことをしているのも、自分の身の回りの知り合いの力になんとかなれないか、というある種私的な利益を追求している側面も否めません。また、ここで http://www.slideshare.net/ScienceTalks/sciencetalksvol1 も強調している通り、一年中、小さいものから大きなものまで研究費の申請に明け暮れていて、自分の研究をなんとか進めようと必死です。そうこう言う現在も、とある非公募の大型研究費に応募できることになり全力で申請の準備をしてます。近藤さんを始めとする他のガチ議論スタッフ全員から、その申請・審査過程を精査してこのサイトでオープンにしてみよう、という斬新すぎる企画をもちかけられ困ってます(企画は却下させてもらう予定;苦笑)。

    要は、Conflict of Interestだらけなわけですが、多かれ少なかれ研究者はそういうものから逃れられないのではないでしょうか。院生、ポスドクの方々の活動であっても、それぞれの立場から何らかの利益を追求せざるを得ないわけです。

    それぞれの人が、自分の利益というものをしっかり意識して、できる限りオープンにしてTPOをわきまえつつ、並行して「日本の科学研究政策、世界の科学研究政策を良いものに」するような活動にも精をだす、ということしかないのでは。そうでないと、そういう活動をする人は、極めて特殊な人に限定されてしまうでしょう。大きな流れにするためには、「無私」ではなく「私」の立ち位置をしっかり認識した個人たちの協力が必要なのではないでしょうか。

  53. tsuyomiyakawa より:

    日本版AAAS、僕は強く賛成なのですが、何ぶん、そういうものを立ち上げるには、熱意をもって汗をかいて動きまわる若手の勢いが必要で、そういうエネルギーと勇気がある人がどれくらいいるかどうか、でしょうね。以前、アンケートをとった際には、あったほうが良いと思う研究者が8割以上いたので、そういう人々が一定数いれば動く可能性はそこそこあるのでは、と思います。

  54. tsuyomiyakawa より:

    僕は私立大学で研究をしているのですが、その立場からしますと「運営費交付金の削減が根本的な問題」という考え方には必ずしも賛成できないです。私立大学への助成金は国立大学への運営費交付金よりも比べ物にならないくらい少ないからです。日本の私立大学にも当然ですが莫大な数の研究者がいまして、こちらから見ますと、運営費交付金はフェアでない予算に見えなくもないです。
    一方、安定した基盤研究費が少ないのが根本的な問題、という考え方は強く持っていまして、ゆるやかに競争的な安定した基盤的研究費を導入する、という案がその対案になっています。
    http://scienceinjapan.org/topics/031413.html

    このアイデアはいかがでしょうか?

  55. tsuyomiyakawa より:

    これまでこの議論に参加できておらず、申し訳ないです。今日これから斉藤さんにお会いする機会があるので質問、できる限りしてこようと思いますが、

    近藤さんのまとめられた
    1)研究教育に対する投資総額が増える可能性はゼロか?
    2)全く競争的でないトップダウンの大型予算の存在は、競争的という題目と整合性はあるのか?
    3)広く浅く的なプログラムを今後増やす可能性は?
    に3つの質問に加え、複数の方々が同一の趣旨の質問をされている
    4)過去の政策について、マイナス面も含めて文科省自身が検証したり、誰かが何らかの責任を取ったりしないのか?

    の4つでさしあたっていいですかね?
    時間の関係上、あまりたくさんはできないと思いますが(というかこれが限界に近いと思いますが)、他にもこれはぜひ、というものがあれば教えてもらえればと思います。

  56. Shinichi Nakagawa より:

    「ばらまき」という言葉が刺激すぎて、また、その程度も人によって受け取り方が違うのでちょっと誤解があるかもしれませんが、たとえば独立PI一人だけのラボなら、人件費を考えると、100万円単位の研究費ではどうにもならないのはその通りだと思います。学生さんやスタッッフがいたとしても、設備費を考えると、やはり足りないと思います。一方、共通機器が充実しているような環境で個人的な研究であれば、100万円単位の研究費でも十分に効果があると思います。いずれにせよ、科研費でカバーされる範囲の研究費は、大型のものであっても、小型のものであっても、良い意味の「ばらまき」に相当すると思っています。

    効率が悪いのではないか、というのは、科研費の範囲を超えた数十億単位になる超大型の予算で、研究者コミュニティーでコンセンサスが取れていれば良いと思うのですが、現状、必ずしもそうではない面が大きいような気がしています。理研の運営費、、、はCOIがあるのでフェアーなことは何も言えないとおもいますが、「大学でできないことをする」ことに存在価値があることになっているはずです。一方、山中さんがiPSを発見したのは奈良先端であった、というのは象徴的な出来事かもしれません。

  57. 匿名ポスドク より:

    先生のおっしゃりたいことはよく分かりますが、今回先生が示されたデータを解釈するに、あまり薄くするとコストパフォーマンスは悪いというのが読み取るんじゃないかということが私の視点です。その点については同意いただけた上で、コスパ以外の理由から、ばらまきが良いと主張されていると理解してよろしいでしょうか。

    私は、きちんと競争的であることが担保されているのであれば、大型予算もアリだと思っています。あまり薄いと効果が無いので、ある程度の濃さは必要だとも思っています。ただ、薄く広くの真逆を行くのが理研の運営費であり、発生免疫脳に偏った、しかも大型で恒常的予算配分がその最たるものだと思います。これについては僕も大反対で、これこそ日本の研究の多様性を潰しているのだと思っています。

  58. 匿名ポスドク より:

    なんか面倒な奴で申し訳ありません。まとめて頂いて感謝申し上げます。

  59. 山形方人 より:

    日本の科学研究政策、世界の科学研究政策を良いものにしようという熱意です。それは個人的な感情ではなく、そういう客観的な熱意を持てば、そのためには、どんな手段や戦略を使っても、自らの恥をしのんで、自らを犠牲にしても、何かやらなければならないという熱意がでてくるはずです。自らの都合や自らの利益を優先せず、世の中を良くしようとする熱意が大切だということです。

    結局のところ、日本の科学研究政策が良くならないのも、個人のこういう部分、つまりエゴであるとか、そういう感情、行動みたいのをコントロールできないリーダーや個々の研究者が多い。そこにかなりの原因があるのだと、私は思います。こうなると、制度や仕組みを変更してもダメで、個人を変えるしかないということです。この辺の議論も大切だと思います。

    たとえば、「選択と集中」が問題といいますが、選択と集中の対象となる研究者が自らを律し、そういうことをやらないようにすれば、選択と集中は起きないということです。つまり、こういうことが生じてしまうのも、研究者の方でそうなりたいと思っている人がいるからなのではないでしょうか。

  60. 近藤滋 より:

    ご質問をまとめさせていただきますと、
    1)研究教育に対する投資総額が増える可能性はゼロか?
    2)全く競争的でないトップダウンの大型予算の存在は、競争的という題目と整合性はあるのか?
    3)広く浅く的なプログラムを今後増やす可能性は?
    でよろしいですか?

  61. 近藤滋 より:

    かなり前に自分でも「捏造問題にもっと怒りを」という記事を書きました。熱意というか、感情的なものは確かに必要です。ですが、それだけでは続かないのですよ。もともと、本業とは関係ないどころか、本業に負の効果をもたらしかねない活動ですから。

  62. 山形方人 より:

    やはり熱意なんだと思うのです。また、戦略も大切でしょう。おそらく、地味な活動をしていても、結局、何の変化も生じないと思います。私はSTAP問題の炎上化は、負の面だけでなく、様々な問題を表に出したという点で一定の評価もしています。

    現実に施策の影響を受けている研究者が多いなかで、安定した職に就いて、苦難なく研究を続けてきたような先生方では、影響力ある活動は十分できないのではないか、と感じています。熱意が感じられないということです。

  63. 近藤滋 より:

    。一般の研究者の賛同を得るには、物々しいイベントより、論理的で理性的な活動を粘り強くすることが必要だと思っています。このガチ議論のスタッフはわずか数人ですが、これを続けることで賛同者が増えて行くことを期待しています。マスコミとかを、介在させたくありません。劇場型の物々しいイベントは、STAPで懲りている人が多い野ではないでしょうか?

  64. 匿名ポスドク より:

    ありがとうございます。純粋に嬉しく、回答が楽しみです。
    投資額はあくまで他国との比較だと思います。記憶が確かならば、投資総額を増やしている国はそれを反映する形で論文数を増やしていたかと思います。また近年の実験に必要なコストの上昇との兼ね合い等もあるかと思います。

    もう一点聞きたいことがありまして、一般的に科学技術予算の目玉政策(Impact等)はすべからく集中投資に偏りすぎるきらいがあります。省庁間での予算獲得戦略としてはしょうがない部分もあるかと思いますが、もっとどうにかならないものか。最先端研究開発支援プログラムの若手・女性枠のような形態の目玉政策(割と広く浅く)がなかなか打ち出されない理由が知りたいです。もし可能ならばよろしくお願いします。

  65. 近藤滋 より:

    ご質問の内容、重要と思いますので、次回官僚の方に聞いてみようと思います。ただ、この20年くらいで若年層の人数は減っていても、大学運営費+研究費の総額はむしろ伸びています。文科省としても、投資も無くゲインを求めているわけではありません。

  66. 匿名ポスドク より:

    本当に「大学の淘汰方法としての運営費削減」が本音のところなのでしょうか。現在は少子化対策として幼小中高は無償化の方向へ向かっています。大学組織だけベクトルが逆な理由としては少し弱い気がします。大学も、小学校のように定員割れしたところを統廃合するのならば理にかなっていると思うのですが、各大学の包括的運営費削減は毛色が違う気がします。つまり、もし大学においても「定員割れ大学の運営費削減」ならば、大学の数は減らせると思いますが、「定員超過の大学も含めてまるごと運営費削減」では単に学生が割を食うだけで、大学の数は減らないと思うのです。

    岸本先生のおっしゃられるように、競争的資金の財源として包括的に運営費が削減されてきたと理解していました。私が最も国に主張したいのは、基礎研究に対して「投資もなしにゲインを求めてくれるな」です。研究者サイドも、「金が足りない。金さえあればいい研究できるんだ」という最も現状を反映していて、なおかつシンプルな主張をしていくことが重要で、これこそ現在足りていない部分だと思います。

    その前提があったうえで、理研のような、発生、免疫、脳研究に特化し、競争的ですらない大型予算が恒常的に与えられる不公平を解消していくことが重要だと思います。

  67. 山形方人 より:

    「劇場型の物々しいイベント」をやらないと、社会にはこういった問題を喚起できないと、私は思うわけです。草の根的には、署名活動なども可能だと思います。欧米では、例えば、昨年のHuman Brain Project研究助成の内容に関する問題や、つい最近も人工知能兵器に関する懸念などでは、「オープンレター」を作製し、それに一般の研究者なども署名できるウェッブ参加型の署名活動を行っています(下のリンク参考)。人工知能兵器の問題では、ホーキング博士やチョムスキー博士なども署名に加わっています。そして、こういう活動が実際に大きな効果があったりするわけです。

    http://www.neurofuture.eu/
    http://futureoflife.org/AI/open_letter_autonomous_weapons

    日本でも学術会議や国立大学協会などの組織が、偉い方々を中心とした組織として声明を出したりするのです。ところが、こういう場合、やはり一般の研究者も参加して、署名できるという形にしないと、社会に問題を喚起できない。そもそもどれだけの研究者が関心を持って、問題意識を共有し、変化を望んでいるのかも明らかではないわけです。

    これには、まず多くの研究者の賛同を得ることができる「オープンレター」の文案を作製しないといけないでしょう。そして重要なのは、偉い一部の研究者が考えていることではなく、多くの一般の研究者の意見として、世に問うということが大切だと思います。

  68. 田中智之 より:

    多くの企業は、博士取得者を極めて領域の狭い専門家と考えているために、つぶしの利かない、使いにくい人材と考えています。私の所属する分野でいうと、製薬企業では博士取得者が研究以外の分野で活躍している(もとは研究職であっても)という事例はたくさんあります。そういう企業では、有望な人材の比率が高いポピュレーションとして博士取得者を捉えています。

    一方で、研究者としての訓練をきちんと受けずに学位だけもらったという若手については、こちらもまたいくらでも悲惨な話があり、金輪際博士は取りたくないと考えている人事の方もいらっしゃいます。こちらについては、大学院の定員を無理に満たすことや、学位審査をいい加減にやってきたことのツケを払っているという見方ができます。

  69. 近藤滋 より:

    その方向に進むには「基礎科学の博士取得者を企業が欲しがる」という状況が必要です。が、現在はそうなっているとは思えません。なぜでしょうか?

  70. 田中智之 より:

    率直にいえば中高レベルの補習を行うような教育機関を大学と呼ぶことには抵抗がありますが、これとは別に若年人口の減少に合わせて大学数を減らすという考えには賛成できません。

    機械化やIT化の進展がどんどん人間の職場を奪うようになっている現在、国際的なプレゼンスを維持するためにも人材育成に今まで以上に力を入れるべきだと思います。「良い」研究室では、基礎研究以外の場でも活躍できる優れた人材が育成されているということは、研究者の多くが気づいていることではないでしょうか。

    国の規模がシュリンクする中、現在のリソースの配分比率を維持したままシュリンクするというのは、何も考えていないことに等しいです。まさに今は、人材育成にどの程度投資するのかという総額レベルで、研究、教育を考えるべき時期ではないかと思います。

  71. 田中智之 より:

    残念なことなのですが、基礎研究やそこに従事する研究者の評価は社会ではそれほど高くないということを認識させられることが多いです。匿名ポスドクさんの仰るとおり、民間ではできないことに私たちが取り組んでいることは間違いないのですが、その価値が認められているとはいえない状況です。基礎研究の成果は、いかに研究として優れていてもすぐには価値が認められないものばかりですから、官僚はそもそも業績についても本質的には関心はないかもしれません。ニュージーランドの行政改革のように、実際に基礎研究の支援について大なたを振るった国もあります。

    財務省の意向を反映するという解釈が正しいのかも知れませんが、文科省もまた社会の方を向いて仕事をせざるをえないことは当然のことだと思います。最近は賛否が分かれるようになりましたが、土木事業の方が価値が理解しやすいですし、雇用にも結びつきます。

    私は、研究室における訓練は、昨今切望されている論理的で問題解決能力の高い人材を育成する優れたシステムであることをもっとアピールした方が良いと考えます。企業内でロジカルシンキングの研修をしたり、外部のコンサルタントの意見を聞くくらいならば、研究者を雇用した方が早いです。もちろん、そうした社会の要請に応える人材育成を行うことが重要で、大学院生を労働力扱いしているような研究室は論外なのですが。

  72. 近藤滋 より:

    >近藤先生が分生でやられたことは、これに先鞭をつけるようなものだったのではないか

    そこまで考えてはいませんが、とにかく、我々が動くことで何かができる、という感覚を広めたい、というのがガチ議論のモチベーションです。ご評価いただきありがとうございます。

  73. 近藤滋 より:

    >過去の日本では、結果としてこのような分散型投資が働いていたから、ノーベル賞につながる研究成果が出ていた、という議論が国民に共有されるようになればよいと思います。

    同感です。そのためには、国民と研究者の間に、ちゃんとした意志の疎通があることが必要です。そのために何をできるかですね。

  74. TIM より:

    そもそも、科学コミュニティが政治力を持ってないから多くの現場の意見が通らないという感じがするのですが、いかがでしょう(文科省や政策決定者たちの政策がまずかったというのは当然ありますが)。研究費をとる側としては「国家財政が厳しいので・・・」と言われれば仕方ないと思ってしまいがちですが、先進国のなかでは日本の名目GDPだけがここ20年頭打ちなんですよね。これでは研究や高等教育の取り分が増えるわけがないので、科学コミュニティはボトムアップでの現場環境改善の具申はもちろんのこと、安定した経済成長にもコミットしなければ、安定した研究費や教育機会というのは勝ち取れないのではないでしょうか(専門ではないため正確でないと思います、ご容赦ください)。末は教授か麻薬屋か http://scienceinjapan.org/topics/061615.html でもコメントしましたが、日本版AAAS のような組織ができて一定の圧力団体として機能すれば、少しこれに近づけるのではないかと思います。また、こういった研究者の見識と事務能力を備える団体を組織することは、(あくまで、本来は味方である)文科省や他省庁との政策立案や調整などに、研究者と事務方の良い所をうまく使えるようになるのではないでしょうか。研究者が、我々が、大学や研究所がまず集まる寄る辺を模索したいと思っています。近藤先生が分生でやられたことは、これに先鞭をつけるようなものだったのではないかと勝手ながら思っております。トピック違いですみませんでした。

  75. yaeko takeoka より:

    「21世紀に入り研究力の目安となる論文の質、量はともに下がり先進国の中で水をあけられている」(国立大協会政策研究所報告書)という事実自体を、国民は全く知らないと思います。当然、その原因も知りません。
    大学改革と科学技術政策をめぐる報道は、圧倒的に政府発のものが多く、科学技術政策を中立的に検証する報道は、本当に少ないと思います。

    それから、素晴らしい研究成果が生まれていくプロセス(道のり)とか、素晴らしい成果をあげた先生方のキャリア(どの大学やどの研究機関から出発して・・・)も、国民は知らないと思います。
    その事実を知れば、地方の大学や研究機関を含めて、基礎研究分野の若手研究者にチャンスと研究資金を付与することが、どれほど重要なことか、が理解されると思います。

    そして、多分経営系の方なら分析できると思うのですが、そのような若手研究者向けの資金は案外1件あたりの金額は多額ではなくとも、投資効果はあると思うのです。つまり、スタートアップのベンチャー向け投資に似ていて、100件or1000件投資した中で、大きく育つのは1件だけど、その1件が大きい、というような。

    研究においては、選択と集中は必ずしも適切ではなく、分散的な投資が向いており、また必要であり、過去の日本では、結果としてこのような分散型投資が働いていたから、ノーベル賞につながる研究成果が出ていた、という議論が国民に共有されるようになればよいと思います。

  76. 近藤滋 より:

    財務省の圧力に抗するためには、国民の支持が必要です。我々はそのために何をやっているでしょうか?

  77. yaeko takeoka より:

    文部科学省が財務省の圧力に抗しきれず、運営費交付金の削減を続けている状況。
    これが根本的に国立大学の体力を奪い、基礎研究力を弱体化させ、若手研究者の地位を不安定化させ、優秀な若手人材を研究職から遠ざける結果を招いていると思います。

    財務省は財界の人材を動かし、内閣府・官邸主導の会議を通じて政策変更を迫るなど、実に巧みだと思います(実用化研究予算を確保することは企業にとっても重要です)。
    基礎研究=将来に対する投資、に予算を投じる重要性を訴えるのは研究者のみ、という現状を、なんとか変えていかなければなりません。(本来は、シンクタンク機能を果たすべき社会科学系研究者・セクターの助力があればよいのですが)
    ただし、第三者的に言えば、国立大学はもはや一枚岩ではなく、全体の予算縮小の中で、資金配分にかかわる施策に大きい影響力を持つ特定の研究者(岸本先生以外の方)・大学が存在しているのは事実でしょう。ドライに直視すれば、また道も見えてくるように思います。

  78. 近藤滋 より:

    この質問は、官僚には答えにくいでしょうが、ぶっちゃけて言ってしまえば、大学の数を半分にするためでしょう。

    若年世代(0~15歳)の人口は、http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2012/zenbun/s1_1_1_02.html
    1985年>3500万人
    2010年>2200万人
    2035年>1600万人
    です。

    これを見て、大学の数が今と同じで良いと考える人はいないと思います。高等教育にはお金がかかるし、それのほとんどが人件費ですから。
    しかし、どうすれば、国の科学研究のレベルを下げずに大学の数を減らせるでしょう?
    考えてみてください。
    「運営費を削って、その分競争的資金にすることで、淘汰する」という解決法よりも明らかに良い方策があれば、それが採用される可能性はあると思います。

  79. 近藤滋 より:

    「競争的にさえすればいい、という考えはもうあまり残っていないのです。そのデメリットは、皆さんと同じように我々も感じていますので。」

    という意識はあるということなので、それをちゃんと活用しましょう。もうすでに引退した人たちを責めても実りは無いと思います。もちろん、論文数低下の原因はしっかり調べないといけませんが。

  80. Shinichi Nakagawa より:

    謝罪というのはちょっと物々しすぎますしあまり建設的ではないと思いますが、今の思いを語っていただくというのはとても参考になることだと思います。先日の毎日新聞の記事で岸本さんが「どうだったのかなと思っている」と語っておられたのはとても印象的でした。

  81. 山形方人 より:

    具体的な提案をということでしたので、具体的な提案をさせていただきます。

    福井新聞という地方紙に、おそらくここで多くの方が議論しているような内容の論説がでていました。
    http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/editorial/76694.html
    「この20年の誤った政策の転換は官庁任せではできない。政治も社会も科学の現場も協力し、複雑・高度化する科学技術政策の在り方を熟考する好機であろう。人口減で研究の担い手は減るばかり。根本的な改革が必要である。」

    この論説では、90年代のバブル崩壊をその原因として議論していますが、先日、私が議論したように、「遠山プラン」や伊藤正男先生の「戦略」がでてきた時期と一致します。別の方も指摘していましたが、この歴史的な検証を行ってみる。これは抽象的な提案ですが、問題の原点がどこにあったのか、というのを考える上で大切だと思います。

    そして、一番大切なのは、「この20年の誤った政策」、つまり政策の誤りを認めるということだと思うのです。官庁、政治、社会、科学者、すべてが「誤り」であったと認めるべきではないでしょうか。ところが、今年の科学技術白書など見ていると、そういう認識が明確に書かれていないと思います。むしろ、正しかったと主張しているように思います。
    http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa201501/1352442.htm
    私の提案としては、来年度の「科学技術白書」には、この20年の「政策の誤り」を認めるという記述を入れるようにしてもらうということです。それは、国立大協会政策研究所の報告書でも、豊田長康先生などが個人(?)として分析されているような内容を根拠にすることができると思います。これは、官庁が自らのかつての施策を誤りであったと認めるという苦しい作業だと思いますが、実施して欲しいです。

    もっと効果的なのは、例えば、伊藤正男先生、岸本忠三先生など、こうした「誤った政策」を実施させたリーダーの先生達に、公の場で率直に今思うことを語っていただく。できるなら、「謝罪」していただく。誤りを認め、謝罪する。これをメディアなどで大きく報道してもらう。そういうことができると、社会の認識を変えるのに、大きな効果があると思います。

    根本的な改革については、私はやはりこの国のあり方、成り立ちから議論しないといけないと思いますし、抽象的になってしまうので、今回はやめておきます。

  82. Shinichi Nakagawa より:

    国が選んだ人材を国が雇用する、そういう人材を各機関が目的に応じて受け入れる、ということであればあまり違和感はないと思いますが、各機関が雇用する人材の選考に関われないというのはさすがにまずいかな、という気がしました。

  83. Shinichi Nakagawa より:

    Conflict of Interestでいえば中立的な意見ではありませんが、基盤的な経費を削減する代わりにものすごく大きなプロジェクト予算を立てる、というのではなく、科研費の枠を全体的に拡充するような「ばらまき」が良いのではないか、と思っています。現在いろいろなところで、毎年基盤経費を減らす。ただし、何かプロジェクトを立てたら大きな予算をつけてあげる、という方針で物事が進んでいるような気がしています。そうではなく、基盤経費を手厚くする、また、多くの人に獲得のチャンスのある科研費のシステムを重視するほうが、長期的に見て社会への還元効果が大きいのではないでしょうか。

    もっとも、完全に何もしなくてもお金が入ってくるような「ばらまき」になってしまうと、意志の強くない僕などやはりサボってしまうと思いますし、ある程度の競争性を確保することは大事だと思います。科研費はそういう意味でかなり公平な競争性が担保されているシステムだと思ってはいるのですが。。。

  84. No so bad より:

    >私の実感としては、コネ採用横行しているようには思えないのですが。

    私の実感だと地方はまだ横行していると思います。
    (国研などは私から見ても比較的フェアだと同意します。)

    この点、長く続く都市伝説みたいなところもあるかと思うので、きちっとしたデータないでしょうか?

    新規テニュアポジションが 自校出身又はポスドク時在籍、 同一ラボ、 全く関係ない と言ったクラス分けのデータあると分かりやすいですし、このデータがあればポスドクさんが抱く印象と実際の差は分かるかなと思います。

    このデータ公開するだけでも「改革」なんですが…

    あと、地方大学から2~3枠取ったところで、多様性を失うまでは大げさな気がします。確かに全部この制度はアカデミアの独自性がなくなるので危険だと思います

  85. Shinichi Nakagawa より:

    そうですね。実際利害関係者ですから、もらっているかもらっていないかで判断していると思われても仕方がない側面はあると思います。でも、それをぬきにしても、さきがけや新学術のような領域会議のあるグラントは研究者間の交流が促進されるというのが大きなメリットであると思います。とはいえ、たしかにその機会がないならないで学会やミーティングへの参加に積極的になるかもしれません。ともあれ、一人一人への分配額は大きいといっても年間数億というものではありませんし、性質としては川上さんのシステムとそう変わらないような気がします。

    問題はやはりトップダウン型・出口指向型の超大型プロジェクトの是非で、基盤経費が削られてそちらに流れていることに納得がいかない人は多いと思います。たしかに衛星打ち上げや加速器の建設など集中投資しなくては進まないものもあるかもしれませんが、こと生物系に関してはどうなのでしょう。特別な予算を組んで大型プロジェクトで大きいことをやろう、というのは大切なことだとは思いますが、その分基盤的な交付金が減るのはむしろ長期的には逆効果なのではないかと思います。

  86. 匿名ポスドク より:

    いろいろと驚きですね。。。。日本からの論文数が減ったのならば、大学法人じゃなくて研究法人がテコ入れされるべきじゃないかと単純にそう思います。大学を絞りに行くと、最後に割を食うのは結局学生なんですよね。文科省は幼稚園から高校まで無償化しようとしてるにも拘らず、大学教育は殺しに行って、そんなに高卒人材を増やしたいのかと疑問です。

    話しを逸らせてしまって恐縮です。ひとつ提起したいのは、研究業界の中でパイの分け方を議論するのはスケールが小さい気がしています。他の業界から予算をごっそり持ってくる方法を考えてみるのはいかがでしょうか。たとえば土木関係の公共事業費の一部を研究業界に持ってくる方法は無いでしょうか。公共事業としての基礎研究。基礎研究は未来への投資すなわち公共事業の一形態という位置付けで、上手く理屈付けてこっちに持ってこれないですかね。上手くやれば良い具合に国民ウケする政策にならないかなと。経済刺激策としては土木事業が一番良いのでしょうが、長らく道路づくりも批判がありますので、新たな公共事業の一形態としての基礎研究を打ち出しても斬新な政策として良いのではないかと思いました。
    また我々は研究者であり、外から見ればかなりの専門性を持った集団のはずです。我々の仕事は我々でなければ為し得ないもので、民間企業には務まりません。もし日本の研究者がひとつのコミュニティを形成すればそれは基礎研究の独占企業になると思います。なので、上手く全員でタッグを組んで、国に対して我々の価格のつり上げを行えないもんかと思案しております。たとえば国立オリンピック競技場の建設費はゼネコンによって好き放題に吊り上げられております。なのになぜ我々は国に絞られなければならないのでしょうか。国はゼネコン相手に前年と同じ予算で今年はもっと多くの道路を作らせようとするでしょうか。我々に業績を出してほしくば、国は相応の投資を行うべきで、投資も無いのに我々は業績を出せるわけがないと、当たり前のことを恥ずかしがらずにアピールしていくべきです。それを偉い先生方にやってほしいなぁと思うのです。これ以上研究者に頑張らせるのは無理と言ってほしい。

  87. Koichi Kawakami より:

    中川さん、新学術絶賛ですが、やはり「もらっているか」「もらっていないか」の違いは大きいのではないでしょうか?私は特定研究には、中川さんが言うところの「育てられた感」をもっていますが、それでも1000万円程度の研究費を1テーマひとつで(ひとりひとつでなく)申請できるようにした方が公平感があると思います。

  88. Koichi Kawakami より:

    なるべく返信するようにしているのですが、ここのブログの構造、異なるコメントに返信が重なると、わかりにくくなって、使いにくいですね。

    返信に返信が重なる構造で無く、縦に全て読める方がいいと思いました。

    少し話題を本来の「大学改革」からそらしてしまいました。すみません。

  89. Koichi Kawakami より:

    基本的に国からの補助金による買い物は全て非課税でいいと思います。その分、元が絞られることになっても。財務省は、消費税として回収することで使途を都合良く変えられる、等のメリットがあるのではないかと推測しているのですが、ちがいますか?

  90. 田中智之 より:

    理化学研究所では逆の議論があるという話を聞いたことがあります。即ち、国家財政が厳しい中、「研究者の楽園」を無条件に継続することは難しい。社会に対する説明責任を果たすためにも、これからは先端研究だけではなく人材育成も目標にかかげようというアイデアです。理化学研究所は大型予算を執行する場という大前提から発想すればこういう流れになるのかもしれませんが、大学で仕事をしている研究者は唖然とするのではないかと思います。

    大学では、研究に対して素人である学生を対象として指導を行い、しかもその顔ぶれはどんどん更新されるという厳しい条件の中、研究を行わなければいけません。逆の「授業料」ともいうべき研究費の無駄(実験の失敗等)についても我慢しなければいけません。一方で、評価においては結果が全てで、言い訳無用という風潮が強いです。

    選択と集中のおかげで、小さな研究ユニットがどんどん減少していますが、同時にきちんと研究教育を受けた若手人材が減少していることにも注意を払う必要があります。国立大学に対する基盤的研究費の削減の意味するところは、研究コミュニティに堅実な人材を提供するという活動は評価しませんよということなのだと思います。

  91. Koichi Kawakami より:

    コネ採用が横行している、と思われているのが(思わせているのは)よくないですね。私の実感としては、コネ採用横行しているようには思えないのですが。

    一括して人事を行うと、多様性が損なわれると思います。国の施策に合致する人材(のみ)が採用される危険性もありますし。CDBの人事のような事件もありましたが、それでも人事は多様な大学、多様な研究機関の自主性に任せるべきと思います。

  92. 匿名ポスドク より:

    大学の運営費を削って、(競争的)研究資金に回すというのが間違いとういのは多くの方のコンセンサスかと思います。まず、大学は教育の場であるわけで、教育にかけていた金を研究費に回すというのはいかがなものか、教育は教育でしっかりと担保されるべきものかと思います。よくある理屈かとおもいますが、こういった意見に対してお役人さんたちはどうお答えになるのか、知りたいでます。

    大学法人に研究を求めるのであれば、研究開発法人(理研)並みの基礎的な予算が必要なはずで、そこに格差があるのはおかしいと思っています。なので、そこを平たく競争的にできないか。理研で各講座に恒常的に配られているお金をチャラにして、これを競争的資金に回せないものか。人件費の枠を、全国にオープンにできないか。総体としてのProductivityの向上につながるのではないか。

    えっと、質問の形にまとめると、「大学法人にハイインパクトな業績を求めるのであれば、それ相応に研究開発法人並みの予算投入が必要なのは当然だが、そこに格差がある理由は何か」です。

  93. 匿名ポスドク より:

    非常に同意します。ついでなので、理研の各ラボの「運営費」も明らかにしてもらいたいですね。「研究費」ではないので一概には一致しませんが、同様に可視化しにくいところかと思います。

    ただ、3000万円から9000万円が効率的な使い方の出来る金である以上、似たような目的を持つ人たちが寄り合いを作るのも自然な流れなきもします。スタートラインを高いところで揃えられるような仕組みがあると良いなとは思いますが。

  94. 近藤滋 より:

    おっしゃることは解ります。
    そのために、若手の枠が有ります。
    年齢で申請できるカテゴリーをさらに細かく分けますか?でも、それはそれで問題が出るような。

  95. 近藤滋 より:

    これは、次回の質問事項として重要ですね。本来、これ等の組織が研究者と積極的に話し合っていくべきものと思いますので。次回の質問事項にします。

  96. 匿名ポスドク より:

    NIHのグラントにはR01以外にも少額の枠の研究費があるはずですが、それとの比較ではないでしょうか?

    日本においてもポスドク・テクニシャン・大学院生に対するTA/RAの給料は研究費からの場合が多いでしょうから共通点ですね。確かに、そういった意味では日本においてもBC程度の額では、意味が無いものなのかもしれませんね。

  97. 匿名ポスドク より:

    中川先生の主張は、データを見れば「広く浅くばらまいたほうがよい」という結論になるということだと思っていました。またこのスレッドはコストパフォーマンスを語るもので、なおかつインパクトという評価基準を以って研究を測る前提を提示されてのものだと思いますので、当然その上で話をしております。そういう意味ではポスドクの一人も雇えない基盤BCは極端に非効率的だと僕自身は思っております。少なくとも生物医学系の研究をやる上に於いてはですね。ポスドク一万人計画の結果、山ほどポスドクが増えて、中にはびっくりするくらい優秀な人もいるのに、研究予算は細切れ過ぎてポスドクを雇えないとは何とも時代錯誤だと常日頃感じているところです。ERATOについてですが、個人的には、少しは夢のある話もないとなぁ、無くなると寂しいなぁと思うところがあります。特別推進は他の研究費との重複を禁じられていますので、超大御所に新学術等やらCrestやらをがっちり固められることもなく、ある程度中堅の先生方が活躍される場を確保できるという効果もあるのかなという気がしております。

  98. Not so bad より:

    賛成できるかできないか(好きか嫌いか)だと議論止まるので…。CDBと言うワードがNGでしょうか? どこかが一括で人事やる。もちろん責任も背負う。手下を惰性的に雇うといったコネ採用を減らし、地方の活性化の一助にする。コンセプトは良いと思うんですが…。 このままで、コネ採用が横行し、頑張ってても日本に帰ってこれない方々に何も施策を見せないよりも、少なくとも「文科省はかんがえているよ」というメッセージ性はあると思います。 官僚さんも考えてこの制度を設計しているでしょうし…他に代替案ありますか? こちら側から良い改革案を提示できるといいですよね。 ちなみに匿名ですみません。 実名でここに意見するほどハートが強くないんです。 この点、他の先生方を本当に尊敬します。

  99. 近藤滋 より:

    肝というか、考え方の違いです。我々は研究者の利得を考えて提案しますが、彼らが考えるのは国民の利得です。また、前例のない事は、不測の事態を引き起こすことになり、それは彼らの責任になるので、慎重になるのは当然と思います。

    科研費を非課税にすると、実質的に国の負担が増え、科研費を増額するのと同じ事です。それを知った各種団体が、自分のところの補助金も非課税にしてくれと迫ってくるでしょう。福祉団体や被災者支援団体にそう迫られた時に、何故科研費はOKで、それらは不可なのか、説得できるロジックは無いと思います。

  100. Koichi Kawakami より:

    前例のないことをさせないために存在しているように思えますね(笑)。
    新しいことを提案して実現するのは、難しそうですが、近藤さんはかなりその「肝」を理解しておられる。

  101. Koichi Kawakami より:

    「ピークを迎える」と言ったのは中川さんなので、それについては中川さんにきいて下さい。

    たいていNIHの研究費、と言ったら、それはR01のことを意味します。

    米国のPIは研究費から、ポスドクの給料、大学院生の給料(”大学院生”はあちらではjobです)、時には自分の給料、を払わなければなりません。日本のB、C程度の額ではそのようなことは不可能なので、小額すぎて意味のないものでしょうね。

  102. 田中智之 より:

    GRIPS(政策研究大学院大学)やNISTEP(科学技術・学術政策研究所)という組織は、科学研究支援の政策に影響を与える存在だと思います。こうした組織では、将来の科学技術動向の予想のような前向きな取り組みには極めて意欲的ですが、一方で過去の科学技術政策の検証には消極的であるように見えます。

    科学技術はどんどん発展するものですから、後ろ向きの解析には力が入らないのかもしれませんが、これまでの取り組みを見直す必要はないのか、どのようなやり方がうまくいって、どれが拙かったのかという検証は必須だと思います。

    既に大きな成果をあげたトップ研究者と、自然科学と言うよりはむしろ人文科学的な方向性の強い官僚という組み合わせで、今後も引き続き科学技術政策を立案していくのかという点については疑問を感じています。どのような組織が良いのかは別として、もう少し多様で、今よりは自然科学よりの構成員で議論する場を設けるべきではないかと思います。

  103. 田中智之 より:

    エフォート管理は本当に有効なのかと思わされるような、研究費の集中が今も見られます。一つの研究室単位で見た場合、ラボヘッド、若手スタッフ、特任スタッフがそれぞれ大きめの研究費を同時に得ることは容認されており、また可視化しにくいところでは、そうしたラボが民間の研究助成も多数獲得しています。

    豊かな研究室で到底自分では獲得できない研究費と素晴らしい機器を使って得た成果で、大型研究費を獲得するというサイクルは、最初からスタートラインの違う競争を連想させます。代表的な成果の論文の謝辞にあげられるグラントの羅列を見てうんざりする研究者も多いと思います。

    総研究費は研究室単位で可視化して、それを分母として研究成果を評価するという観点があっても良いと思います。今のところ、実状を反映したデータそのものが存在しないと思います。

  104. Shinichi Nakagawa より:

    単純比較はできないと思いますが、国内であれば、基盤Aや新学術ぐらいまでは投資額に応じてアウトプットが伸びてくるけれども、ERATO、特別推進、そのほかの大型プロジェクはむしろコストパフォーマンスが低下する、ということではないでしょうか。ただし、コストパフォーマンスが良いこと=コミュニティーにとって善、ではないとおもいますし、そもそもアウトプットをどのような指標に頼るかで結果が変わってくると思います。ただ、なんとなくですが、無駄に大きいプロジェクトって多すぎない?という声をよく耳にするのは事実です。

  105. Shinichi Nakagawa より:

    免税店と同じ仕組みでしょうから、法が整備されれば大学や研究所の手続きは変わらないのではないでしょうか。業者の方は大変でしょうが。。。

  106. 盛り蕎麦大魔神 より:

    競争させるにしても正しい相手と競争させてほしいです。
    シニアと若手が同じ基盤Bを取り合うのは競争とはいえないと思います。

  107. 匿名ポスドク より:

    すみません。「ピークを迎える」というのは、それ以下の研究費が存在しない場合にはこのような表現にはならないと思うのですが。。。それともR01ならR01の枠内だけで比較・議論すべきということですか?
    まずR01の最低額が基盤A相当ということですと、そもそも基盤B, Cに相当するような枠がそもそも存在しないということになりますでしょうか。これって、B,C相当額の研究費では生産性が無いと考えられているということになりますか?
    つまり、「十分有効である」の根拠は上記論文から読み取れるのかどうかが判断できずにおります。(リンク切れで元論文が見れないのですみません。別にケチを付けようとしているのではなく、データを基に議論できればと思っております)

  108. 近藤滋 より:

    ツイッターでの書き込みより

    つかひさ2ndさん
    この記事、「相手の話のポイントを的確に突く」「自分たちの取り組みをアピールする」「言質はまったくとらせない」という、ザ・官僚な能力が完璧に発揮されてますよねw
    こういうの見ると、官僚の人って「頭がいいな」と思う

    近藤
    あいては議論のプロです。こう言う人を相手にしなければならないことを、まず、覚悟しなければいけません。

    加賀谷さん
    ちゃんと交流するなら、’お役人’という言い方はどうなのか

    近藤
    ううむ。たしかにちょっと誤解を招くかも・・・
    官僚、と言うのが堅苦しいので、お役人としたのですが、、、

  109. 近藤滋 より:

    官僚の回答を推測すれば
    「特定の使用者のみの消費税を非課税にすると、税務が煩雑になり実務にかかるコストが増大する。科研費の消耗品の場合、一件あたりが少額なので、100円を非課税にするために100円以上のコストがかかること予想され、そちらの方が、より馬鹿げていることになる可能性が大きい。」

  110. Shinichi Nakagawa より:

    これ実現したらすごく助かります。実質10%近く増額ですね。

  111. Koichi Kawakami より:

    ちょっと書いたらいろいろ言いたくなって来ました。常日頃思っていることだったのですが、科研費で購入する消耗品への消費税課税です。米国ではNIH研究費で購入する消耗品への消費税課税はなかったと思います(確認必要)。もともと税金由来の科研費から消費税分、財務省に返金するのは馬鹿げていると思いませんか?実際、消費税増税は、研究費や運営費交付金を圧迫しています。科研費、運営費交付金で購入する物品については消費税非課税にしてほしいですね。

  112. Koichi Kawakami より:

    NIHは、原則的に$250,000が基本単位となっていて、それ以下の研究費はないのです。またここから自分の給料を支払う場合もあります。ですので、日本と直接比較できないのですが、給料が別途支払われる日本では1000万円くらい、と考えたわけです。基盤Aくらいですね。Bではポスドクを雇うことが難しいですし。BやCは、若手研究者が自身で実験する場合、もしくは学生がたくさんいて人件費を支払う必要がない場合(その場合消耗品も多額にたりますが)、には十分、のケースはあると思います。

  113. Koichi Kawakami より:

    「大学の運営費交付金を減らして競争的研究資金を増やすよう 主張した。」
    現在、運営費交付金の減少から、人件費が切り崩されるような状況だと思います。人が減ってしまっては、お話にならないと思います。競争的研究資金で、自分のサラリーをカバーできるようなものはありませんし。

    前のコメントとも関係しますが、これまでの日本で良かったことのひとつに、研究がうまくいっても、不幸にもうまくいかなくても、「食いっぱぐれることはない」感があったこと、ではないでしょうか?山中先生の「うまくいかなかったらクリニックでもやろうか」というコメントは象徴的だと思います。医学系では、それがセーフティネットになっているのでしょう。理学系はそういうわけにはいきません。研究者生命をかけて研究に打ち込むことは誰にとっても必要で重要なことと思いますが、本当の生命をかけるような状況は、あまりにも背負うものが大きすぎ、研究にとってもプラスにならないと思います。

  114. 匿名ポスドク より:

    横から失礼します。リンク先が読めないので何とも言えませんが、もし、研究費あたりのインパクトが、$250,000–300,000あたりでピークを迎えるのであれば、3000万円-9000万円クラスの研究費が最も効率がよく、それ以下の安い研究費はむしろ非効率であることを示すものではないでしょうか。もちろん高い研究費も非効率なのでしょうが、自分としてはそちらの方が逆に驚きです。3000万円-9000万円クラスの研究費は自分の中では大型だという認識なのですが、みなさんはいかがですか?このデータから考えると、極端な話、基盤B,Cを廃止して基盤S,Aの枠を増やす方向にトライアルがなされるのが自然な流れかと思います。薄く広くの議論への反論データになるのではないかと思いました。リンク元を確認しない中でのコメントで失礼します。

  115. Shinichi Nakagawa より:

    下のほうの議論の流れで書き込んだので埋もれてしまっていますが、重要な論点だと思いますのでこちらにコピペさせてください。山形さんのコメントへの一つの答えにもなっているかと思います。

    ーー
    知り合いの方から教えていただいたのですが(以下引用です)

    MeetingでNIH/NIGMSのDirectorであるJonLorschが講演したのですが、統計をきちんと取ると、研究費あたりのインパクトは、$250,000–300,000あたりで頭打ちになって、$750,000を過ぎるとむしろ下がってくるとのことです。
    http://www.molbiolcell.org/con
    これを受けて、NIH/NIGMSでは、グラント配分の方法を変革する(ためのトライアルを行う)と言っていました。

    アメリカの話なので予算の規模も違いますし一概に比較はできませんが、少なくとも生物系の研究においては、戦力の集中投下は多様性を減らす方向に働きパフォーマンスも低下する、広く浅くばらまいたほうがよい、というのは研究者の間では衆目の一致するところではないかとおもいます。

  116. Shinichi Nakagawa より:

    新学術のようなグループグラントはユニークなシステムで、特に海外の方から、それはユニークで良いシステムだね、と言われることもしばしばあります。特定領域のころからこのシステムに「鍛えられ育ててもらった」感が強いので、一つの軸として存在感があるのではないでしょうか。

     一方、特別推進というのは、やはりあの研究はすごいなあとおもう反面、よくわからなくなることもあります。知り合いの方から教えていただいたのですが(以下引用です)

    NIH/NIGMSのDirectorであるJonLorschが講演したのですが、統計をきちんと取ると、研究費あたりのインパクトは、$250,000–300,000あたりで頭打ちになって、$750,000を過ぎるとむしろ下がってくるとのことです。
    http://www.molbiolcell.org/content/26/9/1578.full.pdf+html
    これを受けて、NIH/NIGMSでは、グラント配分の方法を変革する(ためのトライアルを行う)と言っていました。

    アメリカの話なので予算の規模も違いますし一概に比較はできませんが、少なくとも生物系の研究においては、戦力の集中投下は多様性を減らす方向に働きパフォーマンスも低下する、広く浅くばらまいたほうがよい、というのは研究者の間では衆目の一致するところではないかとおもいます。

  117. Shinichi Nakagawa より:

    生物系のbig projectと物理系のそれとは規模が違いますので、同じ枠組みで考えないほうが良いのではないでしょうか。同じ省庁が管轄する制度だから同じ枠組みで、とすると、いろいろ無理が出てくるのではないかとおもうのですが、いかがなものでしょうか。
    過去の成果での選考というのは、確かにわかりやすいかもしれませんね。過去の成果でなくこれから何をするかで評価する若手枠(例えば若手AとかBとか基盤Cとか)、これから何をするかでなく過去五年の微分値で評価するシニア枠(例えば基盤AとかBとか)と分ければシンプルかもしれません。過去五年成果が全く出なくても10年20年かけて仕上げる仕事こそ本物のサイエンスだ、というような批判はあるかもしれませんが、、、

  118. Koichi Kawakami より:

    (2)について。更新課題は、新規課題として申請すればこと足りるのではないでしょうか?

    科研費については、米国NIHの研究費がモデルですが、新学術、特別推進などは廃して、全て基盤で1000万円くらいのユニットにし、1テーマで1つ(ひとりひとつではなく)申請できるようにする。年2回は(NIHのように3回とは言いませんが)申請できるようにし、審査の継続性(前回の審査時の評価を受け継ぐ)をもたせて前回の申請時からの研究の進展を評価する、等がすっきりしてよいのでは、と以前から考えています。

  119. 近藤滋 より:

    1)ですが、それをするとspring8とか、スーパーカミオカンデとかは、全く不可能になります。

    2)は、いっそのこと、新規課題の採用の時の審査基準として「これから何をするか」では無く、「過去5年の成果」のみで選考したら良いのでは?成果報告の審査=次期研究費の審査となり、手間が省けます。何より、「この研究計画には金がかかるのでたくさんよこせ」という主張ができません。過去5年の成果分しか、次期に貰えないからです。文句を言う人は、少ないんじゃないかな。

  120. 近藤滋 より:

    基本的に、官僚は行政官ですので、官僚個人の価値観により施策はしません。形式的には、彼らの役目は、施策を決めるための話し合いの場を設定し、決定までのプロセスをマネジメントすることです。ですから、施策に対する責任を問われても困る、と言うのが正直な答えだと思います。実際、科学政策決定のトップである総合科学技術会議の議員は、岸本先生の様なトップサイエンティストです。だから、山形さんの挙げた問題点のほとんどは、科学者側の責任である、という反論ができないこともないです。

    しかし、官僚の方たちは、自分たちの考えや行動がかなり影響するという感覚を持ち、その点責任感を持っていることも事実で、「全部科学者側の責任だよ」と言うような反論を受けたことはありません。対話型科学政策室を作ったのも、その姿勢の表れかと思います。ですから、問題点の集約と、解決法の提示をしっかり行えば、協力してくれる可能性は高いでしょう。私の個人的な意見としては、彼らを「敵」とするのでなく、味方につけて改善の道を探すのが効率的かと。どの道、行政官は必要ですので。

    と言うわけですので、官僚の人にぶつけられる「具体的な改善のアイデア」をお願いします。

  121. Koichi Kawakami より:

    まずノーベル賞受賞者の方々にきいてみたら、どうでしょう?「日本を見限ったこと」という答えは困りますが(笑)。

  122. 近藤滋 より:

    >日本のこれまでのシステムの何がよかったか
    確実に言えるのは、「時間があること」でしょう。

    他にはなんでしょうか

  123. Koichi Kawakami より:

    「CDBや何かが一括人事することで少なくとも研究力を持った人が地方大学に輩出できると思います。」これには全く賛成できません。

  124. Not so bad より:

    (1)の人事を大学に任せると、結局今までの枠組みでの人事で変化ないですよね? スタートアップ付の特任准教授くらいの扱いで、骨抜きになると思います。CDBや何かが一括人事することで少なくとも研究力を持った人が地方大学に輩出できると思います。枠は各大学が出すので、旧帝大だけに偏ることはないと思います。イメージはプロ野球のドラフト? 全部の人事をこの制度で運用するわけではなく各大学2~3枠なら、計画的人事には影響しないと思います。各大学に配置された後で5~10年は動けないようにすれば(FA制度みたい?)、様々な問題も解決できる???たぶん…
    (2)そもそも卓越している人はテニュア取っています。だからこの制度で救えるのは言葉は悪いですが「2nd~3rd Best」の方々だと。であれば曰くのセーフティネットとしてはある側面からは機能できると思います。全員救うのは今では無理なら、すこしでも前向きに掬い上げるという意味では悪くない制度だと思います。

  125. 山形方人 より:

    私は、日本では、行政の構造、そして科学研究者と「お役人」の関係に根本的な問題があると思っています。最近も、新しい国立競技場の問題がありました。そこでも、科学技術研究政策と共通する構図があると思います。つまり、1)専任の責任者が明確でなくて、責任を持っている人がいない。2)当事者でない政治的な背景が、現実の当事者のあり方より優先される。3)また、一面だけの観点から、議論もせずに勝手に決めてしまう。それが、どのような結末になったのか、新しい国立競技場の問題では明確な形で見ることができました。

    文部科学行政では、今世紀になって最初に打ち出された「遠山プラン」くらいから、顕著になってきたと思います。あるいは伊藤正男先生あたりの提唱された「戦略」という概念でしょうか。その施策のあり方は、いろいろ名前を変えていますが、その本質は同じだと思います。では、打ち出した当時の遠山敦子さんが責任を取るわけでもないし、当時のリーダーであった伊藤正男先生の評価も行われない。こういうものを、ポジティブあるいはネガティブに歴史的な評価をしてみる必要があるのではないでしょうか。

    最近、岸本忠三先生のインタビューが毎日新聞に掲載されていましたが、「10年ほど前、政府の総合科学技術会議の議員を務め、任期制や成果主義などの競争原理を導入し、大学の運営費交付金を減らして競争的研究資金を増やすよう 主張した。大学の教員が何もしなくても定年までいられるのはおかしいと考えたからだが、今は「本当に正しかったのかな」と思っている。」とおっしゃっている。では、岸本先生のリーダーシップはどのように評価されるべきなのか。
    http://mainichi.jp/journalism/listening/news/20150724org00m070013000c.html

    責任も問われず、ポジティブにもネガティブにも評価されることがない「リーダー」「お役人」。こういう体制というのは、日本の文部科学行政のいたるところで観察されます。こういう責任も問われないようなリーダーのあり方では、真剣に物事を考えず、適当なことを口任せで言っては、表面的なことをぼつぼつとやるというような施策ばかりになってしまう。文科省の施策では、リーダーシップということを盛んにいうわけですが、リーダーをきちんと評価して、責任を取らせるというようにしないと、適当なこと言っては適当にやるという無責任な施策が増えるだけではないか、と思うのです。リーダーになる以上、すべてをその職にかけて、兼任をせず、その職務だけに集中させるというのも大切です。また、官僚というか、お役人ですが、影で隠れて動くような無責任さがあります。こういう人達を個人ごとに具体的に外部評価して責任を取らせるということをやらないと行政はよくならないでしょう。これは、日本の官僚の構造的な問題だと思います。

    また、科学研究のことをわかっていなような政治家や官僚の思いつきや、人気とりといった個人的な事情が、施策になってしまう。国立競技場問題では、デザインばかり考えていて、工事の方の経費に気づいていなかったというお粗末さです。こういうのは、例えばポスドク一万人計画を実施した時に、ポスドクを使う方の研究者の都合ばかり考えていて、ポスドクの立場の方については考慮が足りなかったというのと同じ構図です。つまり、ある一面だけの便利さとか、そういうことをやっては、議論をせずに勝手に施策を行った結果、こういうことが起こるわけです。

    さて、私は、近藤さんのノーベル賞の例は、こういう考え方も可能だと思います。日本の競争的研究費のあり方を、更に「競争的」にして、選択と集中という方向を徹底的に進めれば、これまでのノーベル賞の数のペースを倍にできるのではないか。こういう見方について、反論ができるでしょうか。実際、政治家あたり、あるいは財務省の官僚は、本当にそう思っているのではないでしょうか。私も含めた科学研究者の多くは、ヤマハ発動機の社長の言葉を借りれば「発散と自立」のような方向が、何が発見されるかわからない科学研究のススメ方として望ましいと思っているのだと思いますが、これが理解されていないのだと思います。

  126. Koichi Kawakami より:

    近藤さんのノーベル賞の例えは秀逸と思います。斉藤さんの最後の意見「ノーベル賞の件で、闇雲に欧米のシステムをまねればよい、というものでもないことはわかりました。でも、それだとお手本がないということですから、新しいシステムを創造することが必要です。」の「でも、お手本がない」に論理の飛躍がありますね。お手本は日本の旧システムで、近藤さんはその中に見倣うところ、残さなければならないものがある、ということを主張したかったのだと思いますが。日本のこれまでのシステムの何がよかったか?を分析して、具体的に示す必要があるでしょうね。

  127. Koichi Kawakami より:

    研究不正の防止効果については「?」です。卓越研究員になるために不正をする可能性があります。
    (1)については、それならば人事権は各々の大学や研究機関に委ねるべきでしょう。
    (2)セーフティネットが生活保護ではお話になりません。せめて、米国のように、地方の大学の教育職、等であるべきです。

  128. 近藤滋 より:

    確かにおっしゃるような問題は有ります。しかし、現在のPD制度では、PDは完全にPIに従属します。しかし、卓越制度では、PDの自主性が期待できます。これは明らかに研究不正の防止、独立した仕事の機会、を増やします。

    良い面と悪い面の両方を挙げて、その上で判断する必要が有りますね。

    (2)に関しては、以前に文科省で議論したことが有ります。確か答えは「セーフティーネットを研究者のためだけに構築することは、特定の職業のみを優遇し他を差別することになるのでできない。セーフティーネットは、全ての職種を対象にしたものであるべきで、今のところ不十分ではあるが生活保護が存在する。」だったと思います。

  129. Koichi Kawakami より:

    (1)国が選んだ人材を大学や研究機関が雇用する、というシステムですから、人事に関する各々の大学や研究機関の自主性が損なわれます。年間100人ということなので、この制度が10年、20年続いた日には卓越研究員が全国で1000人、2000人になります。雇用の費用は所属機関もち(国の負担は最初の2年のみ)なので、大学や研究機関では自らの判断での新たな人材の雇用が困難になっていくでしょう。所属機関は、メジャーな大諾や研究機関に集中するでしょうね。
    (2)博士課程に進学する学生が減り、研究や研究職が魅力的でなくなってきている我が国の現状では、卓越研究員制度のような「上澄みをどう掬うか?」という制度よりも、「セーフティネットをどう構築するか?」の方が大事であると考えているから、です。

  130. Not so Bad より:

    使い方によってはいい制度だと思うのですが、どういう点がまずいと思われるのでしょうか?

  131. Koichi Kawakami より:

    卓越研究員制度はやめてほしいですね。

  132. Shinichi Nakagawa より:

    1)は半ば冗談ながら本気でそう思っています。2)は結構良いアイデアではないかと。

    1)科研費以外の全ての研究費を廃止し、「書類なし」で科研費取得額に従って各研究者に比例配分したら、国際連携も異分野連携も若手支援もイノベーションも爆発的に進むなんてことはないでしょうか。社会が必要としている超大型プロジェクトは、税金ベースでなく、民間、寄付金ベースで。

    2)現状の新規課題と継続課題の枠組みの他に、「更新課題」があっても良いのでは。評価を研究者にやらせると全部SかA評価になってしまうのでムリ、というのなら、審査員を全員40歳以下の若手にさせれば良い。次世代の人が本当に必要とする分野なら、その分野が残る仕組です。

  133. 田口善弘 より:

    僕は1997年に国大(いわゆる研究大学)から私大(早慶以外)に移った口ですが、この20年で私大における研究の扱いは激変しました。昔は「講義の合間に物好きな先生がやっていること」という意識でしたが今は「研究レベルが低いと大学の浮沈に関わる」という感じです(ただ、「研究」の評価が「獲得した(公的な)研究資金の額」になってしまっているのが困るのですが)。いまや「地方国大よりうちの方が研究環境はいい」とまでおっしゃる方もおられます。そういう意味では国大と私大の差は(地方国大の環境を切り下げる形で)ずいぶんと縮小はしたのだとおもいますし、それは「無意味な競争のための競争」があったおかげなんでしょうね。私大は経常費を学費に依存している以上、国大の様に毎年定率切り下げということは無かった(定員割れさえしなければ、ですが)ですから。僕の様に私大にいる人間からすると大学単位でものが動くと私大でポツンといる人は不利なので「今ほど短期間でなく、かといって無条件に恒久的でもないシステム」になると私大には研究資金は来ないんじゃないかと疑心暗鬼なります。まあ「私大を切り捨ててでも国大が生き残らないとこの国の科学に将来性は無い」という意見も正論なんでしょうけど。

  134. 近藤滋 より:

    1は、以前に聞いたことが有ります。基本的にシビアな評価を受けることは「無い」です。

    以下は、近藤の理解している責任問題です。

    新たな制度ができるときには、まず、政治家レベルの主導があり、その後、その方向性で学術界の委員が集まって意見を述べそれに基づいて、制度が決まります。役人はあくまでも、その手続きの仲介ですので、形式的には責任はありません。

    しかし、実際には、無知な政治家や、自分の分野にのみ思い入れのある老齢研究者よりは、広い視野を持って日本の科学の将来を考える「行政官」がしっかりと責任を持って行うべき事と思います。当然、評価もされるべきでしょう。これまでの5年で終わった制度の是非についても、納得できる評価がなされるべきです。

    2についても、何度も聞いたことがあります。さきがけcrestのテーマがかつて自由だったのは、文部省と一体化する以前です。公募分野をガチガチに絞るのは、「科研費(旧文部省)>>何でもありの基礎研究」「JST(旧科技庁)>>国の戦略目標にそった研究」という違いをはっきりさせるためです。何でもあり系の基礎研究は、科研費が担当で、その予算はこの20年の緊縮財政の中でも減っていない、と言うのが答えです。

  135. 卓越下働き より:

    1. 研究者の多くは制度の出来不出来が文字通り生死に関わるわけですが、制度を決める側は何らかの評価・処分を受けることはあるのでしょうか。

    2. 昔の業績と強調されてますが、iPSは割と最近のJST事業(さきがけ・CREST)などからの成果と承知してます。公募分野をガチガチに絞る昨今から数年前、ですね。その頃と今の差についてはどう考えていらっしゃるのでしょうか。

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